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嫌なことが頭から離れないときは

 どうも嫌な事が頭から離れない。寝ようとしても眠れないし、起きていても繰り返し嫌な事が思い出される。自分にとってなんのメリットもないことなのに、なぜ自分の頭の中のエネルギーを使うのだろうか、と不思議になる。
 嫌なことを思い出すのは、嫌な気分を感じたいかいからなのかもしれない。つまり、自分が積極的に嫌な気分を味わいたいのではないか。だからこそ、繰り返し繰り返し思い出し、地味に腹が立つのだろう。
 嫌な事は怒りに繋がっている。そして、怒りは自分がバカにされたことに繋がっている。そういう具合に具体的に嫌な気分がすることが分かっているのならば、それに対応すればいい。
 でも、それってできないのである。それが出来ないから、面倒なのだ。

 意識と無意識とが脳の中で活動しているらしい。いわゆる意識が認識できることならば、自分の制御の範疇内になる。自分でどうにかすることができる。
 しかし、無意識の活動は自分ではどうすることもできない。消化の悪い食べ物を食べたとき、自分の意志でどうにかなるものでもない。そう、ここが大切なのだが感情の発生や沈静は、自分の意志ではどうにもならないのである。
 紙に火をつけると燃える。燃えているときに扇ぐと勢いを増す。水をかけると消える。ただし、紙にできることはない。周りの状況によって、火がついたり消えたりしているだけである。どうにかすることは周りの環境を変える方法しか実際にはない。
 ならば嫌な気分が燃え上がったり消えたりすることがあるとすれば、それは周りの状況に大きく依存するはずである。自分の努力で自分の気分が変わるなどということはない。あるいは、気持ちを切り替えるなどということもできない。気分は直接にコントロールできることではない。自分の意志とは無関係に生成消滅しているものなのである。
 火のついた紙が気分と対応するのならば、酸素や水は何に対応するのだろうか。もちろんたとえ話なのだから、該当するものを思いついたとしても、それで何とかできるというようなことはないだろう。ただし、該当するような対応物か見つかれば、そのアナロジーで気分を操作できるかもしれない。試す価値はある。
 
 まず、嫌な気分には直接の原因がある。緊張や心配と違って、ある状況なり、ある人、人々の存在が引きがねである。おそらくだが、たいていは「人」であろう。それは特定の個人かもしれないし、あるいは、マスコミや役所といった特徴的な行動をとる不特定多数の人あるいは職柄かもしれない。なにはともあれ、対象はかならずあるだろうからそれをはっきりさせる。
 つぎに、どういう具合に嫌な気分になるのか反省してみる。個人的な経験でいえば、嫌な気分のほとんどは腹立たしさである。腹立たしい原因は、バカにされたか不当な非難を受けたときであろう。
 例えば、楽器の演奏が下手だと自分で分かっていて、他人から楽器の演奏が下手だと言われてもあまりショックにはならない。自分では結構上手だと思っているときに下手だと言われると腹が立つ。
 つまり、非難される事柄について、自分の評価と他人の評価とが違っているときに、腹立たしさを感じるのである。そして、その行為は他人からバカにされたという点に落ちる。
 これでほとんどの状況をカバーできるのではないだろうか。少なくともぼく自信はそうである。

 最後の繰り返しをやめること。我ながら不思議に思うのだが、なぜ繰り返し繰り返し嫌な気分になるような「ストーリー」が頭に浮かんでくるのだろうか。ほとんど1秒程度の嫌な場面、あるいは、自分が想像しうる「嫌だと感じる場面」が浮かんでくる。そして、その場面を想像して、自分で嫌な気分になる。あぁ嫌だと感じるか、あぁ腹が立つと怒りになるか、どちらにしてもストレスである。それで終わるのかと思いきや、再びストーリーが頭の中で再生される。
 気分がいいにしろ、気分が悪いにしろ、自分のことでありながら他人のようなものである。他人の顔色を窺うことがあるが、意識からすれば自分の顔色すか伺う必要がある。
 顔色を窺うとストレスがたままる。何時の時代でもそういうものだろう。ピラミッドの頂点にいる人は別だろうけど。そうでない人の大部分は、このストレスを抱えて生きてきたのだろう。
 
 嫌な事が頭でぐるぐる回るときの解決方法。嫌な事の再生は無意識側で行われているのだろうから、意識でどうにかなるものではない。ならば、意識は意識でできることに時間を費やしてしまう事である。
 よく言われる事は身体を動かす事。ただし、歩く事はダメである。なぜなら、歩くことは意識の介在なしで実現できるから。歩いているだけだと頭は違うことを考え始めてしまう。おそらく、嫌な事を思い出すだけだろう。自転車でもそうだ。
 ならば、考え事を停止するには、大変難しいことをすればよい。意識の介在なしではできないことがよい。車の運転くらいならばなれた人は半ば無意識でやってしまう。たとえば、なれない楽器の演奏。絵画を描くこと。あるいは、今このようにして文章を入力しているのが、そのようなことである。
 楽器の演奏は自宅に入るときに都合がよい。だんだん上手になるだろうから、嫌な気分がながびけば自分が別の意味で成長していくことができる。嫌な事を燃料にすることができるのだ。これが一番良い方法だろう。絵画も同様。ただし、絵画は下手だと楽しくないという問題が楽器の演奏よりもシビアである。
 つぎに、文字の入力。最近はブログが増えてきた。普通の人でも言葉を入力する機会が多いだろう。しかし、感情を言葉にするだけならば、効果は望めないと思う。感情を連ねるのではなく、時間の流れでもよいし、論理の構築でもいいけど、過去も未来も一度の俯瞰するような文章を書くことがよいだろう。なぜならば、その場合は自分や自分の考える対象を上空から覗くから。上空から自分を観察することで、自分が主人公ではないものの考え方になる。となると、自分のことでない苦労はある意味どうだっていいじゃないか、ということになる。
 今、こうして文章をつらつらと書いているのも、その実験である。そして、これは効果があると思っている。ただし、問題もある。それは、文章を入力している間は問題ないのだけど、一端PCから離れると考え始めてしまうところがある。
 もうひとつある。それは、諦めてしまうことである。もういいや、どうでも。怒りの原因は理不尽である。自分がバカにされていることで怒りを感じるのは、その評価が間違っていると自分では思うからである。もしも、その評価が妥当だと思えば、腹は立たない。つまり、開いての評価もあり得るし、それでいいやと諦めてしまえばいい。相手の意見など実はどうしようもないのであって、議論してもケンカしても変わらない。誤解があるから相手は自分を悪く言っているのではない。そもそも悪いように考えていて、それを表現するの客観的な理由付けとして自分をバカだと言っているのである。ならば、実は同あがいても相手の評価は変わらないのである。
 これらの方法はどれも効果がある。だから、どれかを採用するとそのときは怒りの気分を静めることは可能である。しかし、それでも問題は残るのだ。それは何か。

 問題は意識があるときにつねにこれらの方法を採用しているわけにはいかないのだ。生きていくために働く必要がある。そのためには、どうやっても嫌な思いを常に感じ続けなければならないのである。
 嫌な思いで不愉快な気分のときは、尋常じゃないストレスを感じている。身体には絶対によくない。脳細胞を破壊しているし、癌細胞を元気づけているはずである。一刻も早く嫌な気分を払拭するほうがいいだろう。でも、できないのだ。どうやらそれが人の仕組みのような気がする。

 最後の方法は、嫌な気分になりそうになったら、「絶対に嫌な事を考えない」と決心することである。考えることは山ほどある。そ数あるもののなかから、なぜ嫌な事を考えなければならないのだろうか。そんなわけないだろう。つまり、徹底的に逃げるのである。なんの解決もしないことである。

 このように色々考えて、いくつか試したのだが、ぼくは最後のアイデアが一番気に入っている。これは本で読んだ方法だけど、もっとも効果が有る。
 気分というのは、時間によってかすれていくのである。それはどんなに幸せなことであっても、どんなに嫌なことであっても、時間がたてば「驚いてしまうくらい」どうでもいいことになるのだ。そして、時間が過ぎゆく間は、そのことを考えていようとかんげていなかろうと関係がない。
 ならば、考えないほうが無条件によい。

 そうここで、結論がでたようである。