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縦書きワープロの意外な効果

 今日から縦書きのワープロを使うことにした。これが結構面倒ない。鉛筆で作文を書いた頃に使った原稿用紙を思い出してしまう。
 ぼくには技術論文しか文章を書く機会がない。それらは大抵横書きである。日本語であっても一般的に横書きが主流になりつつある。
 その原因は分かっている。ワープロである。ワープロは横書き文化圏の発明品。縦書きを上手に扱えない。
 例え日本語版のワープロソフトでも、欧米文化圏からの変更だから単に文字を縦書きにし、漢字を扱えるようにしただけである。使い勝手まで縦書き用になっていない。だから言い訳程度の表現しかできない。ましてや考える道具としては使われない。
 ワープロソフトが原因で日本の文章は横書きが標準になりつつある。なんとも情けない。
 とはいえ、なかには日本語用につくられたソフトもある。一太郎はEGWORDである。だから、実に気持ちよく縦書きができる。愉快なくらいだ。残念なことに、これらのソフトはあまり多く利用されてない。
 縦組みで文章を書く労力はワープロ次第である。現在ぼくがつかっているワープロならば縦組みでの作文に違和感はない。むしろ縦に入力された文字列が延びていくことに楽しさを感じる。この感覚は滅多ないものである。

 日々の暮らしをささえる文章は縦書きでも横書きでもかまわない。
 しかし文化を担うところはそれではいけない。現在出版されている本において、横組みか縦組みかの比率はどのくらいだろう。翻訳ものであっても、小説など長文を読ませる本は縦組みである。新聞も縦組みである。縦組み文化はしばらく安泰だろう。
 法律の文書はどうなっているのだろうか。知り合いの弁護士の人と話す機会があった。その人が言うには、A4組み版が多くなったという答え。最後までそれに抵抗していたのは裁判所だったそうだが、今では横書きの文書が普通になったということだ。
 弁護士が作文に使う装置はパソコン。しかし、PCの性能を追求するタイプの人はあまりいない。となれば一般的なワープロを使うことになる。当然横書き。しかも、その方が便利である。彼らは国語学者ではない。仕事の効率を選ぶ。

 縦書きと横書きでそんなに違いがでるだろうか。その答えはでる。しかし、縦書きの法が効率が良い。そう思っている。なにせ、こうして今縦書きで入力しているおり、その効果を実感している。縦書きのほうがすらすらと言葉を入力できる。
 縦書きが有利なのは入力した文字列を読む速度に由来するのだろう。横書きの本ですらすらと読めた本はぼくは知らない。いわゆる理系で使う教科書や論文は全て横書きである。それらをすらすらと読めるものではない。
 一方、縦書きは自然だ。新聞や小説を毎日何時間も読んでいるから訓練量が膨大である。だから、普通の人は縦書きの能力は高いだろう。ぼく脳は圧倒的に縦書き派なのである。

 実はこのことにこれまで気づいていなかった。とくに縦書きを求めるわけでもなく、横書きで書いていた。ブログはブログソフトやプログラム用のエディタで書いていた。
 今こうして縦書きソフトEGWORDを使って入力しているが、これがすこぶる調子が良い。入力した文字、入力中の文字列が読みやすい。あまりに読みやすいためか、次の言葉が浮かんでくる。こんな便利なものをなぜ今まで使わなかったのか、驚きである。
 もっとも、ウェッブ画面も横書きが普通だから、入力も横書きが自然だろうとは思う。
 ぼくは大きな声でいいたい。今まではぼくが間違っていた。日本語の発言は絶対に縦書きで書くほうがよい。それが最終的には横組みで公開されるのだとしても、縦書きで書こう。今までこうしていなかったことがなんともったいない。
 作文で考えるとき、すでに入力した文字や入力しながら言葉を探す。このとき、圧倒的に縦書きのほうが楽である。本当だ。読む、確認するということに、縦組みならば頭を使わない。無意識で処理している。
 一方、横書きは、読むことに頭を使っていないようでいて、実はかなりの労力を割いている。横組み文字の理解するのに頭を使っている。だから、書きたいことを考えることがおろそかになるし、余計な作業で疲れてしまう。すると、集中力が落ちてしまう。
 下書き、草稿、メモなどは縦書きでやろう。
 それに、縦書きでの入力は、なんといっても気持ちがいい。入力した文字が次々と縦にならんで原稿用紙の枠に吸い込まれていく。まるで万年筆のインクが紙にしみ込むように、文字が原稿用紙を模したスクリーンに置かれていく。
 入力された文章がまるで自分が書いたような気分になる。しかも高速に。こんなふうに上手に高速に書くことは不可能である。それがコンピュータならば可能なのだ。これは一種のバーチャルリアリティーなのだ。縦書きの文章はこんな意外な効果がある。

 今後の日本語のメモ書きは、最初はこの原稿用紙モードで行うことにした。一端リズムにのると、すらすらすらと原稿用紙のようなスクリーンに文字が置かれていく。しばらく続けると文字を置くことが楽しくてしょうがなくなる。もう、万年筆に凝ることもないかもしれない。
 マックを購入し、EGWORDを購入するにはお金が必要である。高級万年筆よりも高い。しかし、それだけのものはある。こんな素人の僕でさえ、原稿書きは楽しいなと思わせる効果があるのだから。

 文字を置くことが楽しくなったなら、なんらかの作品を目指すのがよい。無論、素人なのだから素人程度の作品しかできない。それでもいい。だからといってやらないのはもったいない。
 プロの物書きや評論家たちは素人が原稿を書くことをせせら笑うかもしれない。バカが書くようになった、などという皮肉を読んだ事がある。そのレベルに違いはあるにせよ、大抵の人はそう考えているはずである。
 しかし、そんなものは全部無視してかまわない。なぜならば、彼らの言うことを聞いたからといって、ぼくらに都合の良いことやラッキーなことは何一つ彼らは保証してくれないから。そんな連中の言うことに耳を貸す必要などない。
 もちろん、縦書きのワープロを使ってもいい作品が書けるようになることはない。ワープロと作品の質に直接の関係はない。
 しかし、そもそもの目的が歴史に残す作品を書くことにないなら、単に楽しい時間を過ごすために文章を書いてもいいはずだ。時間的にも金銭的にも余裕のある人は、遊びとして文章を書いたっていい。

 素人は自分で楽しむために書く。そして、自分が楽しむことができたら、次は他人を楽しませるように文章を書くように発展すればいい。
 当たり前のことだが、他人を楽しませることを念頭に書くこと。公開する文章はどんなものでもかまない。しかし、それを狙ったったところで簡単にできることではない。しかし、狙わないでできることは決してない。
 別の効用もある。他人を楽しませることを常に心がけていけば、何が他人を楽しませるのか気になってくる。これまでは面白いという感想しかもてなかった小説やエッセイの感想を書くときに、新たな視点をもてる。プロの文章がなぜプロ足り得るのか。その理由を思い知ることができるだろう。
 凄いものを凄いと感じる。この能力は人生を隆にするためのコツだと思っている。
 圧倒的多数の人は、自分は偉いのだと他人に理解させたいのだ。しかし、そんな想いは犬でも食わない。読者つまり他人を想定した文章を書いていけば、人が見えてくるだろう。人に興味を持てば、生きていることが素晴らしいと気づくだろう。

 人間は何をやっても最後は死んでしまう。偉大なことをしたい。その目標も努力も素晴らしいことだ。しかし、普通の人は偉大さを目指す必要はない。楽しく生きていくことだ。
 「楽しく」と「生きていく」の両立には工夫がいる。刹那的な楽しみでよければ難しくない。しかし、それでは長続きしない。むしろ生きていくのに障害になる。ギャンブルでも犯罪でもなんでもそうだ。そのうち生きていけなくなる。
 一方で、単に生きるだけではもったいない。同時代であっても地球上には大勢の人が生きていくだけで精いっぱいなのである。そんな状態にいる人が何かを新たに始めることはできない。そもそも、思いつきもしないだろう。
 楽しめる可能性をもてる人は誰に後ろめたく想う必要なくそれを追求していい。

 では、僕も何かを始めてみよう。ぼくは文章が下手くそなので、まずは文藻テクニックを上達させたい。
 つぎに内容を面白くさせたい。内容はぼくが知り得たことでもいいし、知ったことを知らない人に解説することでもいい。さらには、想像をことばにしてみることでもいい。なんだっていいのだ。
 エッセイの次は論説文で、その次は小説。難しさのハードルはこういう順で高くなっているはず。