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線分生活

繰り返しの美学

 繰り返しの生活という言葉で思い出すエッセイがある。大学受験の頃に雑誌で読んだもの。「大学受験雑誌 大学への数学」という大学入試試験の数学だけを扱う不思議な雑誌であった。毎月、大学の入試問題で可憐なものを集め、解き方を紹介したり募集したりしていた。

 数学は不得意だった。高校3年で数学が0点をとったことがある。数学の教師から呼び出され、お前は理科系に来るなと言われた。浪人したとき、その頃の人生の1/3を数学の問題を解くことに費やしたおかけで、浪人中から数学が好きになり、そんな変な雑誌まで愛読するようになったのだ。一問を数日かけて考えて解くという楽しさをそのとき自然と体得した。

 ぼくが印象に残っているエッセイは、線分生活を取り戻せという内容であった。タイトルは忘れてしまった。作者は医学系の大学に合格した、その雑誌の元愛読者だった。

 その人の大学生活はあまり充実したものではなかったらしく、浪人時代のがんばりを回顧していた。今は遊びなどでほうけているが、はやり浪人時代のように単調な努力を取り戻す必要があるのではないか。浪人のときは自宅と予備校とを繋ぐ電車の線の上にしか自分は存在していなかったのだ。そういう「線分」の上で努力する生活を取り戻す必要があるのではないか。そういうエッセイだった。

 その当時ぼくは「線分生活」をしていた。不思議に感じた。この生活が大切なんだ。そういうものなのかな。

 当時も大学はレジャーランドと言われていたし、それにあまり疑問を持っていなかった。先に大学に進学した同級生は「単位単位」と連呼していた。それにぼくは嫌気がさして、こいつらアホかと思った。しかし、自分が大学に入学すると中途半端にしか勉強しなかったため、単位単位に泣かされることになった。その当時、大学で「線分生活」をする人など、白い目で見られたのかもしれない。

 ぼくは留年した。それをきっかけに一年間休学してソフトウエアハウスでアルバイトをし、サラリーマンがいかに悲惨なものなのかを知った。その後大学に復帰したあとは結構勉強し、最終的には博士号までとった。何が幸いするか分からないものである。もうひとつ。あの高校時代の数学教師、ざまぁみろと思った。

 社会にでてから10年間、若干不良気味の生活をしている感もあるが、そつなくこなしたつもりである。そして、今はストレスフリーの仕事をしている。もっとも、この職はもう数年で消えてなくなる可能性もあるから、行き先は不透明である。ある意味、高校卒業時の自分に戻ったようなものかもしれない。

 不思議なことだが、頭に「線分生活」という言葉が浮かぶことがある。どういうタイミングかはっきりしない。決して怠惰に日々を過ごしてはいないつもりなのだけど、ぼくの無意識は「いつまでだらだらやっておるのだ。線分生活を取り戻せ」と警告しているのかもしれない。

 線分生活の基本は単調性と繰り返しである。ハラハラドキドキとは無縁の世界である。というか、できるだけハラハラドキドキから離れようとしている。単調とは「面白くない」ものであって、退屈でつまらないという言葉の意味になる。

 最近読んだ内田樹という人のエッセイに「できるだけ同じ日々を繰り返したい」という主張があったのに驚いた。その人はもう60手前のはずで、その意見は年齢から来るものなのかと思った。しかし、日々の生活の繰り返しの大切さについてそのエッセイを読んでいて、なんだか意味することが分かるような気がしてきたのだ。ぼくも歳をとったということなのかもしれない。

 今現在、なぜ繰り返しが大切なのかを人に伝えることができない。自分は内田樹の言葉を読んで改心したのだけど、その言葉を思い出せないでいる。記憶力の無さが身にしみる。

 なぜ、繰り返し生活がいいのか。それは、結局のところ心地よさには「驚き」は必要ないからだろう。楽しい、心地よいにストレスは必要ない。いつもと同じものならば、それがストレスフリーならば、それでいいではないか。つきつめるとそういうことになる。

 新しいものに対する感性が落ちたのかといわれると、必ずしもそうではない。旅行には行って見たい。知らないことを知るのは、それはそれで愉快である。しかし、それはたまにでいい。人生の圧倒的多数は心地よいもので締めたほうがいい。だから、驚きはたまにでいい。説得力がないかもしれないが、今はそう思っている。

 線分生活という言葉を折りに触れ思い出してきた。もし、この言葉を知らなかったら、単調性そのものをどう扱っていたのだろうだろうか。マスコミは単調性をダメなものとして扱うから、単調性にプラスのイメージをぼくが抱けかたは疑問である。今となっては名前もわからないけど、大学への数学にそのエッセイを寄稿してくれた人に感謝したい。

 線分生活の訳語はなんだろうか。それはfruitful monotonyだろう。この言葉は、代ゼミの英語の講座で受講したテキストにあったものである。先生の名前は青木だった。fruitful monotony。印象深い言葉だったので、今でも覚えている。

 これは一体誰の言葉なんだろうかと疑問になったので、早速googleで検索したところ、バートランド・ラッセルであるとでてきた。キーワードがわかれば検索できる。今は本当にgoogle先生にお世話になってしまう。

 これも縁であろう。早速amazonでラッセルの幸福論を注文した。じっくりと読んでみようと思う。ぼくの現在の線分生活には、こういう読書の時間が多く含まれている。本は楽しみで読む。本で得た知識を何に使うのわけではない。だからこそ、学ぶのが心地よいのだろう。単調な生活万歳である。