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書くことの楽しさの片鱗

題材がなくても書いてみたいという気分

 気分の変化があった。今、取り立ててブログネタはないのだけど何か書いてみたいという気分がする。
 文章を書くときは脂汗を絞りだすような気がして、できれば避けたいものの一つであったのだが、どういうわけか、今はそれを感じない。
 書くのは嫌いである。子供の頃から感じているレポート何枚、原稿用紙何枚という量に対する恐怖が頭に浮かぶから。ぼくは書くという行為よりも最終的な結果の量だけが問題だったのだ。それが文章嫌いの原因だった。
 今は結果よりも行為に注目している。何かを書くという行為が娯楽のように感じるのだ。不思議である。

 このブログのエントリーも100個くらいになり、過去の思索の断片がたまってきた。そろそろ次の段階へと移る時期に来ているのではないかとワクワクしている。書くこと自体に中毒になってしまう。そんななことになってくれないかと期待している。
 なんでもそうだが、量をこなすと自分がそれに応じて変化する。だが困ったことに、それは必ずしもレベルアップという形ではない。技術は時間をかければ最終的には身につくであろう。しかし、それよりも前にそのことに対する姿勢のようなものが身につく。
 ストレスを感じる作業を続けると自分が疲弊する。だから、ストレスを感じることを嫌がり、やめてしまう。
 しかし、それでもやめないと自分の身体を守るためにストレスを「感じなく」する変化が身体に起きるのだろう。ストレスの原因に対して無感覚になるなど。だから続けられるのだ。
 そして、その作業をずっと続けていると、その作業は自分の人生の一部だと身体が認識してくれ、その作業を「好きになる」何かを身体の中で分泌してくれる。だから、嫌いだったものが中毒になる。
 そんな段階を踏んでいるのではないかと想像する。この身体順応の過程は、ある種のランナーズハイと同じように、脳内物質の発生の仕方で説明できるかもしれない。
 何ごともつづけるものだ。そう、感じる。

 自分が上手になったから楽しくなる。そう思いたいが、そうではない。必ずしも上手にできなくとも、好きになってしまうことがある。下手の横好きという言葉もある。昔から知られている人の習性の一つである。
 文章に対するこういう感覚を中学生くらいで身に付けていればぼくの現在は大きく変わっていただろう。
 しかし、そうはならなかった。
 幸いにしてブログというものと出会い、細々と続けることができた。自分のノートだけに書いていたのでは、緊張感が足りないので、100個は続かなかっただろう。ロボットと迷惑トラックトラックバックとしか内容を読まないとしても、ぼの勉強になっている。

言葉への感度が上がった

 自分でブログをつけるようになって、僅かだが言葉に対する感度があがった。言葉のもつイメージを感じるようになった。
 芸術的な感度は上がったのかどうかわからないが、ある言葉を耳にしたときにイメージできるものが、ステレオタイプな画像だけでなく気温や湿気のようなものまで感じるようになってきた。

 例えば今日のジョルダンのページの列車運行情報を覗いたときのこと。通勤電車の遅れを確認していたら、函館本線濃霧のために遅れ、という一行を目にした。霧の中の函館、というイメージが頭に浮かび濃い緑と白い霧と朝の函館の様子が頭に浮かび、なんとも行って見たくなった。そんな風景に佇む自分の吐く息の湿気まで感じたような気がする。

 この例が必ずしも言葉に対する感度の指標になっているのか、若干あやしいところもある。単に、函館によい印象をもっているだけかもしれない。
 しかし、言葉が絵を見るのと同じような「あぁ、行きたいなぁ」という憧れを湧きおこすきっかけになっているのは確かで、これまでそんなことを注意深く感じることはなかった。言葉の力を少しは体得のしたのだろうと解釈することにした。