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原稿を書く

自分の考えをまとめるきっかけとして

 不思議に思うことがある。それは考えていることと行動することが違うこと。考えていることが崇高であってもやっていることが下世話な人がいる。たまに自分でもそうなる。言っていることとやっていることが違う。それは人を非難するときいう言葉である。
 しかし、今はそれを言いたいののではない。本当に考えていることとやることが違ってしまうことがあるのだ。

 無意識と意識がすれ違うことがある。考えていることは意識の下に、行動は無意識の下にある。例えば、ぐずぐずと考え事をしていても自動車の運転はできてしまう。そういうすれ違いのことである。
 無意識下で何を考えているのか。それを引き出す方法として文章を書いてみることが方法として可能ではないか。何を書こうか決めないまま、そのときに思いついたことを順次言葉にしていく。おかしな文章構成になってしまうかもしれないが、あとで推敲すればよいと割り切って書き始める。一読して意味不明であったとしても推敲時に順番の入れ替えることで話が見えてくる。そんなことがあるかもしれない。

 夢はそうである。夢は時間の流れにそって見ていくと思っているが、頭の中で夢の材料が呼び起こされるとき、必ずしも時間の流れにそっていない。連想によって思いつくからだ。例えば窓を開けたまま寝てしまい、それが原因でおかしな夢を見たとき。あるいは焦げ臭い匂いが部屋に入ってきて、それが原因で火災の夢を見ることもあるだろう。
 こういう場合、夢の材料となるものは寝ているときに身体が感じているものを連想記憶で集めてしまう。例えば、寒い、水、お風呂、ナメクジ、といったように。そういう断片が集まって夢になり、風呂に入ろうとしたらナメクジを見つけ・・・という話が構成されるのである。夢を見る側は「時間順に、因果律を守って」見ているつもりだが、頭のなかでは時間順に夢は浮かんでいない。
 ならば、意識にあがってくることだって常に「時間順」であるという縛りはないかもしれない。

 無意識下で考えていることもそれと同じかもしれない。順番がむちゃくちゃでも許すように、考えの断片をつなげていしまう。無意識で終わるならば因果は成立する必要はない。
 ただし、それが意識にあがってくるときには、それらを意味のあるストーリーにするために適当に順序が入れ替えられる。

 文章も意識で書いているようだが、何をどう書くかについては、実は浮かんでくるのを待つより無い。おそらく、その背後で無意識が活躍しているのだろう。無識から材料があがってきたところで、意識が瞬時に因果律と時間の流れをチェックし、意味をなすように再調整している。
 話すことも同じようなことをしているが、より短時間に処理する必要から因果律の整合性がおかしなことになってしまうのかもしれない。人の会話を録音して文字にするとおかしなものになる。一方、文章は時間がかけられるので、そのような間違いは比較的すくなくすることができる。
 もっとも、会話も文章も下手な人はいる。それは、おそらく訓練不足なのだろう。意識において「因果律」や「時間順」の整合性を整える能力は訓練によって高めることができる。

 以上はぼくの妄想である。しかし、わりとよい思いつきではないかと自画自賛している。無意識と意識の機能についての理解がそれなりに妥当なものかもしれない。

つまらないことが頭に浮かぶと行動もとまる

 昔あった出来事が頭に浮かぶ。どうしてそんなことを思い出すのか分からない。そういう思い出のほとんどは、嫌な記憶である。
 例えば、シャルルドゴール空港での取り換えのことをさっき思い出した。なぜ、思い出したのかわからない。そのことが頭に浮かび、腹立たしい気分を追体験した。その間、他のことは何もできなかったので、ぼくの行動は一瞬停止したはずだ。といっても、数秒という僅かな時間だと思うが。
 こんな記憶である。乗り換えのターミナルに急いでいったら、ゲートのおばさんにここじゃないと言われ、ではどこか?と聞いたら、知らんと言われた。実にありふれた記憶である。そのときは乗り換え時間が40分もなく、広い空港をあっちこっち走り回って焦ったのだ。結局、ここじゃないといわれた場所が正解であったのだが、なんでこんなおかしなことになるのか腹立たしかった。
 不慣れな自分が悪いとも言えるが、まったく情報源にならない係員も悪い。思い出してもなんの意味も価値も脈絡もないことである。
 どうしてかこれが思い出された。それが自分に居着くと何度も再生される。

 こういう断片的な記憶も夢と同じように、ばらばらに思い出しているのだろう。そして、それが意識に浮かんでくると、一瞬にして筋道をたてて時間順に再構成してから思い出す。だから追体験になる。
 夢と同じように、意識で感じるのは時間順だから、それなりの時間が意識の中で流れているはずである。しかし、実際には僅か1秒2秒というところだろう。
 一瞬の記憶の再生を白昼夢という。といっても、夢を見るわけではなく、思考が止まってしまうことだ。意識はそっちにとられるので、行動は無意識が行う。無意識は十分頼りになる。自転車に乗ったときなどは無意識が操作してくれている。こういうとき、自分のメインは意識なのか無意識なのか、不思議な気がする。

 もっと考えてみる。今見ている視野を常に意識がカバーしているわけではないことに気づく。例えば、後ろをちらっと振り返り、再び前を向いたとする。自転車の運転などではよくある行動。そのとき、物理的には前を見ていているはずだが、頭の中では振り返ったときに見えた映像を思い出し、車は来ていないよなといったことを確認する。つまり、振り返ったときに撮影した画像を前を向いていながら調べている。この間わずか1秒以下であろう。これは、時間が単調に流れていないといえる。
 もしも振り向いたときの画像から車を探すのに手間取ってしまったらどうなるか。意識で振り払っても振り払っても、過去の映像のほうを頭が処理し始める。頭の中では現在と過去が輻輳してしまう。

物語だと思って諦めて付き合う

 原稿を書くと、過去のイメージを断片的に思い出しそれを話として時間の流れにのるように再構成するという一連の行動を行う。書けば書くほど、この訓練をしているようなものである。だから、書く作業は頭の中では複数の時間を過ごすことになるような気がする。本を読むことよりも、書くほうがいったりもどったりするのだろう。

 頭の中に居着いてしまったことを振り払うには、このクセを逆に利用したらどうだろうか。気になって何度も思い返すようなことがあったら、それを題材だとおもって言葉にする。あるいは絵でも音楽でもいいかもしれないが、言葉の方が取っつきやすいだろう。その情景や考えていることをエッセイとして書きつければ、頭の居着きから抜け出せるかもしれない。