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将来の夢はかなったのか

坂上の雲なのか

 休みをとった。午前中は日があたるソファーでカーテン越しの空を眺め、なにをするわけでもなく過ごす。まとまって夏休みをとらなくてよいので、8月9月は週休3日にしてしまうことも多い。ちょっとした自由度があると幸せ感が倍増する。精神的に疲弊しているわけでもない。だから、ぼくにはバカンスは必要ない。

 職業についてあれこれ考えるようになった。幸せなことだが、高校大学を通じて「就きたかった」業種で職を得た。高校・大学を通じて、それ以外の仕事をしている自分を想像すらしなかったのだが、頭の中で未来を「当然こうなるもの」と思って生きていることは、簡単ではあるが意外に有効なことかもしれない。若干トンデモ系の匂いもするが、事実だから仕方ない。

 ぼくは宇宙開発というものをやってみたかった。カール・セーガンの「コスモス」はおそらく200回以上(シリーズ全部)を見ている。大学受験浪人のとき、毎日見ていたことがある。そのときは、午前中から勉強するのもなんだからということで、朝礼のように見ていた。不思議なことだが飽きなかった。当時将来の不安という漠然としたものは感じかなかったが、まぁなんとか名るだろう程度に考えていた。大学院まで進んだときは、他の仕事に就くことの方が想像できなかったくらいに、自然に宇宙開発をやるだろうと思っていた。当たり前じゃん、おれよりやりたいやついないだろうし。そういう感じである。

 今考えるとかなり偶然に近いのだが、NASDAというところに就職した。これで宇宙開発というものができるのだと、単純に信じていた。が、ちがった。同期の連中に「宇宙開発好き」の人がいないのに驚いた。かれらはたんなる有利な就職先としかみていなかった。それに仕事の内容もつきつめると事務だった。技術なんてものは口先では語りはするが、そんなものはない。単に、税金をメーカーに流す役目だ。そして、メーカーの人からは腹ではさげすまれ、口頭では丁寧に対応されるという変な職業だと気づいた。

 じゃ、メーカーがいいのかといえばそうではない。契約で乙側につけば、圧倒的に損である。たとえ技術をもっていても頭をだすことができない。それでもいいと割り切れる人もいるかもしれないが、大抵精神的には人をさげすみ自分たちを称賛するメンタリティーの人になってしまう。それじゃ、人生台無しである。つまり、契約の甲乙どちらもつまらない、ということがわかった。

 なんともやり切れない気分がしていたとき、ISASから声がかかった。小型衛星のソフトウエアを書く人を探しているということだった。紆余曲折の末、丸2年間はソフトウエア開発をした。自分で書いたプログラムが宇宙で動く。そんな幸福なことを体験できた。

 その作業が終わればやることがない。とはいっても、博士号ももっているし、研究職ということなので自分で何をするか決めて進めればいいはずだ。研究職だから研究をする。もちろん、その結果は論文という形での評価、研究費という形でのフィードバックがある。自分が探求したいことが必ずしも論文になるわけではない。すると論文もなく研究費もなくなる。だから、そういう方向へ行く人はない。

 しかし、研究費がなくても探究はできるはずで、研究費がいらない研究はその意味で無敵になると考えている。今はお金と縁がないがゆえに、自分の頭で考え、手を動かすという方法で活動している。机があり、給料がでているので、それで研究を進めればいいではないか、という割り切りである。

 必要最小限の所内の作業を手伝ってはいる。しかし、それ以上のことはしない。そう決めている。いろいろ考えるのだが、日本において、一体宇宙開発なんてのはどこでなされているのだろうか、という疑問をもっており、宇宙開発とは実は関係のないものではないかと思っている。宇宙開発をしています、という人は疑ったほうがいいのではないか。その人のやっていることを「具体的に」きき出してみる。そして、それが何を意味しているのかを吟味してみる。なんてことはない、会議にまつわる話になってしまうだろう。もちろん、そうでない人もいるだろう。それはとてもレアな人である。

 ぼくにとっても坂の上の雲は、こんなものであった。

別の道を探す

 就職して10年たった。そして、対した成果もでなかった。もちろん、幸せを体験できたのはまちがない。このまま事故や災害で死んでしまっても、まぁまぁな人生であったと言えるくらいのことは体験できた。いいこともあるし、もちろん、面白くないこともある。

 戦中、戦後の世代ではないから、生きていくことを強烈に意識して日々を過ごすことをしていない。それは真実だ。そして、そういう人は大勢いるだろう。すくなくとも、携帯電話を所有している人は生き延びることが最優先事項のリストに上がってはいないはずだ。ぼくが面白くないと感じることなども、生き延びるかどうかに比べればどうでもいいことだとわかっている。

 ソファーに座って考える。そんな環境で考えるからふわふわしたことしか思い浮かばないのだ。なるほど、そうかもしれない。そうかもしれないが、厳しい環境でモノを考えてもソファーに座って考えても、結局考えつくことなど対した違いはないのではないか。なぜなら、考えている人は同じだから。

 とはいえ、再び職業について考える。人はどんなことをしても、結局死んでしまう。善行を重ねようと悪事を行おうと、人為的か人為的でないかの違いの死刑がくだる。しかも、中年まで生きたら、その先の違いは微々たるものである。たかだか20年といった違いで死んでしまう。仕事に崇高なものを感じるは結構なことだが、所詮はその枠の中での出来事でしかない。なんだか、どうでもいいような気もする。仕事を宗教化することもできるが、生きるか死ぬかの状態にないときの仕事は、たんなる暇つぶしでしかないのではないか。

 ヒマだなぁ、仕事でもするかな。そんな形で仕事をする。それもありだろう。それが意外に面白くなってきた。大切に思えるようになってきた。崇高さを感じるようになった。ついには、人生よりも大切なものになった。このように気持ちが変化するのかどうかはわからないけど、それってよく見れば仕事の問題ではない。その人の心境が変化しただけだ。そういう発言って、それを語る人の心境であって、語られるものの属性ではないだろう。当たり前の結論になる。

 休暇をとってぼけっとする。ぼくは奴隷ではない。だから、仕事は暇つぶしであるというスタンスを持ってしまうこともある。国境なき医師団ではない。こういうときは、原点に戻ることもいいかもしれない。結局、人は成長せんのかもしれない。もし、そうであれば、なんでおれはこんなことをしているのだろうか、という根源的な問い掛けを再び自分に向けているものもよしだろう。

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気に入っている場所

午前中は明るいので、ソファーでぼんやりする。
無為に近いけれど、充実している気もする。
休みにお金はかからないわけだ。