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頭の良い悪い。それ以外にも分類方法あるのに

学校教育を受けると、人の見方が一つになってしまうから怖い

 学校へ通って楽しい経験をする。嫌な経験をする。あるいはなんとも思わない。人それぞれであろうが、それでも無事に卒業すると「誰々は頭がいい、わたしはどうだろうか」ということが人の大きな問題になってしまう。学校を卒業すると、そんなことどうでもいいという社会に生きていく人もいるし、それが重要な社会に生きていく人もいる。いわゆる会社に勤めたらどっちになるのかわからない。職人はまた別だろう。しかし、何かを「考え、計算して、モノにする」という過程を踏む仕事では、頭の良さに目がいってしまう。

 とある研究所の端に机をいただいているぼくは、下町育ちのごく普通の人である。中学高校ともに普通の学校をでている。友達も普通の人ばかりだったと思う。といったら失礼かもしれない。「うわ、天才」という人もいたけれど、この歳になっても世間を騒がすような人はいないようだから、やっぱり普通の人たちだったと思う。

 一方で、いわゆる「東大」を卒業し社会で有名になっている人などの話を聞いたり読んだりすると、ぼくの高校時代と彼らのとのは顕に違っている。そんな高校時代だったのか、とビックリしてしまう。どうもぼくの大学時代よりも「大人」である。この違いは何によるものかわからない。どうしてこうも違っているのだろうと感動すらしてしまう。親の影響や友達の影響が支配的だろう。おそらくは、これが社会階層の違いというものなのか。

 頭がいい、ということで通っている有名人の人の選別方法は、その交友関係をみれば明らかである。経済的なことと、文化芸術てきなこと。これらが上位の人が上位の人通し付き合うことを「当然」と見ている点である。あることが「わかる」人たちなれば、それを「わかる」人と友達になるのは自然であろう。なぜなら、話が合うから。人を分類する一つの基準は、内田樹のいう文化資本にの差である。持てる人は持てる人と付き合う。なぜなら、その方がそれぞれの人が「過ごしやすいから」だ。

 どんな指標を用いるにせよ、その指標が「大切だ」と認識されればその指標のレベルによって「自然と」人々が分裂していく。これはあたりまえのことだ。それが良い悪いという議論をしたところで変えようのないことである。友達が友達を規定していくことになる。かりにその指標が文化資本であるとすれば、文化資本は貧富と相関があるので、自然と貧富の分裂が起きていく。それは全く当たり前のことである。

 最近受講している茂木健一郎の講義などを聴いていると、はっきりとは言わないが、自分の所属する階級をはっきりと定義仕様としていることが伺える。それは、「誰と会おうとしているか」「何をネタにした話をするか」である。彼は頭がいいのだろう。そして、高校大学時代を通じて、頭が良い人と友達になっているのだろう。そして、今は色々なパフォーマの人とつながろうと躍起になっている。もちろんそれは「興味」から考えれば当然のことだ。パフォーマンスが高い人に興味を持つから、その人たちと繋がろうとするのは当然の方法である。

 ぼくら普通の人がそのような話を聞いて面白がっている。しかし一方で、普通の人との間に壁を構築しているなと感じることもできる。ハイパフォーマンスな人の話をしてくれはするが、ともすればそれは「あの人は凄い」であり「あの人と話しが通じるおれは凄い」であり、「君たちとは違う」ということである。ほぼ無意識に語っていることであろうが、透けて見えてしまうところが怖い。

 茂木健一郎の例で言えば、最近は「人」の話しかしなくなってしまった。現象の話は人の話のおまけである。確かに個人としては「サイエンス」という単語を口にする。そして、サイエンスの話をする。しかし、その重要では人の話をするための添え物でしかない。現象自体に興味を持っているのは職業的な意識からであって、本人はすでにその情熱を失っているようである。だからだろうか、最近出版する本も講義の話も「人」のことばかりである。

 閑話休題。話がそれた。人を選別する方法として頭の良さを見てしまうのはなぜなのかという問題である。それは多分、頭の良さが「直接見えない」からではないかと思う。技術なり容姿なりは見ればわかる、聴けばわかるというものである。自分ですらチェックできるものである。一方で、頭の良さは直接観測することができない。あるとき凄いことを考えて「凄い」と他人から称賛され、自分でもそう思うことがある。過去に十分な実積を積んでいる。しかしである。今はどうだかわからないし、次はどうなるかわからない。ぼくは小説家や作曲家のような漠然とした不安を頭をつかう仕事の人は持っているのだと思う。

 不安だからいつも考える。長く考えていることは実在することになり、それは重要案件になり、人生でも大切なことになっていく。それは脳のクセのようなものだと聞いた。

 自分が研究所の端にいると、自分を取り巻く人は「頭の善し悪し」に敏感になっていることに気づく。そして、頭が悪いと判定した人を軽蔑する。どうしてそんなことをするのだろうというくらいに、露骨な態度を取る。全く面倒である。それは、自分が不安に思っていることの裏返しだとうことを一瞬でいいから考えたりしないものなのだろうか。

 最近になって、ぼくは考え方を変えた。もういい。ほっておく。ぼくは人生を仕事に賭けない。仕事はヒマだからやっている。そして、面白いなら続けることにする。生きるのに忙しかったら、仕事が人生だ、などと考えたりする必要ないし。なんでこの仕事をしているのですか。そういう質問には即効こう回答する。「だって、ヒマじゃん。何もしないと退屈だからだよ。それに、ちょっと面白いじゃん」これでいい。

 こういうスタンスをとると、なぜだから頭の良さなど気にならなくなる。ぼくが頭が悪い。そりゃ悪うござんした。でも、正攻法で入所したのだし、アウトプットはゼロではない。ヒマだからやっていることだからね。それでいいじゃん。誰がどんな頭でも、だれがどんな高校時代を過ごしていようと、それは過去のことだし、ぼくにはもうどうしようもないことだから、どうだっていいことだよね。これでどの程度世の中を渡っていけるのか。試してみよう。