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なんだか悲しいくらい腹立たしい

悔しさと腹立たしさと悲しさの流れを見る

 人って信用できないものだとつくづく思う。なんでなんだろうか。みな、実際以上の自分に見せようと必至で、その人に協力している人の存在を忘れか無視することが平気なんだ。冷静に考えればおかしいと思うようなことでも、ちゃんちゃら平気で生きている。そういう光景を目の当たりにする。見るだけではなく、自分がそれに巻き込まれる。まったく。

 力がない人をちょっと手伝ってやるかという気分で初めたことであっても、誰が手伝ったのかはちゃんとしておくほうがいい。それはべき論ではない。別に「いい人」ぶるつもりで手伝ったわけではない。しかし、手伝う以上自分のリソースを費やしている。それを完全に無視されるという状況をどこまで飲み込んでいいのやら。

 確かに、感謝されるために手伝ったのではない。しかし、結果として手伝っている。ならばそれなりのことをしてくれてもいいではないか、と考えることが間違いなのだということになる。一方的なおせっかいであれば相手はいい迷惑だったのだから、そんな要求するほうがおかしいという意見もある。それはどうだが、手伝いが功を奏してうまくいった場合もある。そういう時には、うれしさとともに、何とも言えない徒労感モ感じる。

 陰ながら協力した場合は、協力したことを後悔することになる。そのほとんどが協力者の作業の結果であったとしても、そのことが全く触れられないで終わると、悔しさはやがて怒りに変わる。どうしてこんなことになったのだろう。協力はボランティアだったのだから、そもそもから自分の性である。だからこそ、人を見抜けぬ悔しさが積もる。この悲しみは何に例えたらいいのだろうか。

 やがて後悔は一つの確信にいたる。困っている人を手伝うことほど馬鹿馬鹿しいことはない。困っている理由のそもそもはその人の愚かさに原因があるのであり、それを助けるなどという行為を行えば、愚かな人なだけに最終的には自分がそのとばっちりを受けるだろう。これは、一度でも上記の悲しみを知った人の最終的な逃げ場ではないかと思う。困っている人は、困っている人が悪いのであって、そういう人に近寄ることは、百害あって一利なしなのだ。

 他の人との協力ができなくなる社会は必ず衰退する。人の輪が切れていくことで、ちょっとした不運を乗り越えなれなくなる。だから、人を信用しないことは、道徳というもんだいではなく、存亡というレベルで考える必要がある。

 信用にはグレシャムの法則が当てはまる。悪貨は良貨を駆逐する。そして、ぼくはその過程に入り込んでいる。例えそうであっても、それでいいではないか。かわいそうだなという気持ちから手うだって、そして自分がバカをみるよりも、なんとか社会の荒波に巻き込まれないよう個人のレベルで立ち振る舞う方が、まぁ仕方がないという気分でなっとくできるのだから。

勉強代という見方をいれる

 うまくやり続けることはできない。ぼちぼち失敗する。それが致命的であれば、その言葉のとおりそこで致命となる。しかし、そうならないとまたぼちぼちと成功失敗を繰り返して生きていくことになる。致命的な失敗とは、状況にもよるのだろうけど、メッタにない。ダメな人はそうそうに致命的な失敗をして社会から退場してしまうのでメッタにお目にかかれない。良い人はうまくすり抜けていくから、これもメッタにお目にかかれない。今日もどこかでひっそりと致命的な失敗をして倒れていく人がいる。それは、交通事故の死者数のようなものである。

 ラストチャンスには失敗するな。ナエキのフィル・ナイトという人の言葉である。致命的な失敗はするなと同じ意味にもとれる。もっとも、何度失敗してもいいが、最後は成功させろという意味が本来であり、そうでないと消えていなくなると言っている。絶対失敗するなという精神的な訓示よりもはるかに現実に即した「実務的」な教訓といえる。だから、ぼくの頭に残っている。つまりは、失敗というのはするものなのだ。

 ぼくも立ち回りが下手である。とくに、人との関係になると夢見がちになるようだ。他人は大抵いい人ではない。とくに、大人になってから知りあったような職場の人など、よい友達になれるわけはない。自分たちが弱いときに、未来が開けているときにいろいろ知りあった人の中にはずっと付き合っていける人がいるものだろう。ぼくの場合はそうだ。そう割り切って考えれば、毎日が結構過ごしやすくなると思っている。もちろん、そう思ってもそう行動できるわけではないのだが。

 めちゃめちゃいやな気分になる。その理由ははっきりしないこともある。しかし、それは失敗の結果と見るべきだろう。いやなことがずっと頭から離れないとしても、それは失敗の結果なのだと思うと気分の原因が明らかになる。少しは気が晴れる。そう、失敗したのだおれは。

 失敗の落ち着込みから抜け出る最良の方法がある。それは、「勉強代を払った。高かったなぁ。でも、破産しないですんでいる。良かった。」そう考えることだ。致命的ではない失敗ならば、損をしただけである。損をした程度であれば、どうってことはない。そして、その損は授業料なのだ。勉強代だ。失敗から何かを学ぶことができるとすれば、その授業料が高くても仕方ない。それに、それだけ意味のあることになるはずだ。そう信じている。ぼくは、この考え方を中谷彰宏の本で読んだと思う。この人の本からはいろいろ学べたけど、この発想も一つである。勉強代、勉強代、勉強代とくちづさむことで、失敗の悔しさから抜け出れる。