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当てのないことに対する準備

頼まれる前から準備しておかなくてどうする

 頼まれもしないのにしてしまう。それが大好きなわけではない。何となく行動してしまう。
 
 人の生きた結果は行動の結果である。思索は行動ではないかもしれないが、それが残っていくためには語る必要がある。あるいは書く必要がある。考えただけで他人に伝わるものはない。
 
 そう考えると、行動しない人は生きたことにならないのかもしれない。いてもいなくても良かった。ならば、いなかったことにしてしまう。
 
 自分が死んだ後のことはどうでもいい。確かに、本人にとってどうでもいいことならば、まさにどうでもいい。その人の問題である。逆に結果のことしか頭にない人は生きている時はどうでもいいのかもしれない。両者は両極端である。極端な人は反対側の極端を常に意識している。つまり、反対側の人の反対をしているだけである。普通に生きていたら、おそらくは、どちらでもない中途半端なところに落ち着くだろう。
 
 中途半端なことをする人は、ある意味、自由に行動している。自由な気分で結果を気にせず行動している。その結果は当然中途半端なものである。それはそれでいいであろう。普通の人ならば、それでいい。
 
 こうしてブログのために物を書くと、いつも同じようなことを思いついてしまう。何かに突き動かされて書いているわけではないからだ。最近いくつかブログを購読してみたのだが、これらは更新がある反面、一種の宣伝のようなものをしているようだった。有名人のブログには、ブログをつけることがなんらかの成績に反映し儲けになっているものがあるのかもしれない。小額であっても、ブログに原稿料が入るのかもしれない。それに気がつくと、いささか気分が萎えてしまい、購読をやめてしまった。
 
 原稿料を貰っているブログは面白くないかもしれない。それはブログではないような気がする。原稿料をもらっているのならば、無意識に読者として品質を求めてしまう。文章が下手であれば、写真や裏話などの貴重性があるものをブログに要求してしまう。情報を求めてブログを閲覧することになる。これは、寂しいものがある。それならば、きちんとしたフィルタがかかった出版された本を読んだ方が時間が無駄にならなくて済むから。
 
  ブログは本音を語ったものがいいなと思う。暴露話でもはなく、裏話でもなく、誹謗中傷でもないもの。文章をデコレーションしたものも面倒だ。考えたことをシンプルに書きつけたもの。読んでいてこちらが恥ずかしくならないもの。そして、知らない人であっても、なるほどそう考える理由はわかる。そういう人もいるんだなとこちらに気付かせてくれるようなものがいい。電車の中で隣の席に座った人たちの会話に、なるほどと驚かせられることがある。ブログはそういう程度のものでいいと思うようになった。

 誰かも頼まれる予定はないのに文書を書いてみる。ブログの良さは、簡素さと本音とがあるものにあると思う。だから、他人が知り得ない詳しいことや、能書き・正論といったものはブログに必要ない。TVや新聞にのっているようなことをブログに付ける必要はない。それを読んで、当然ような反応を表明する必要もない。求められていないのに、さっぱりと本音を語ってしまう。それを極普通の人がこぞって行えば、世論の一端をブログサーチで垣間見ることが出来るだろう。掲載予定の原稿になると、危険を察知して本音は書かれないだろう。