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修了式と鎮魂

何かを産み出した人は、できれば終了も立ち会う方がいい

 現役時代、みんなのために働いた人がだれに見取られることもなく死んでしまい、そのまま放置される。そういう場所って、たいてい祟りの伝説がある。そりゃそうだ。

 この発想は、相手が人でなくとも同じだろう。

 物事はつくりだそうとするときは人がたくさん集まってきて、周りからの注目を浴びる。しかし、それが使われ始め普通の生活の一風景までにとけこんでしまうと、例外なく忘れ去れてしまう。やがて次の物事がそれに置き換わり、今まで使われてきたものの必然性が薄れる。そして、利用されなくなったときにはすでに誰にかえりみられることはない。

 このままでは祟りがあるかもしれない。だから、物事を終了するときには必ず修了式を執り行い、「何かをつくろうとした意志」を鎮魂する。プロジェクトでも、プロダクトでも、一人で始めた場合でも、チームで実行した場合でも同じ。自然になかったものを産み出したのならば、終了の議を行う。それは形式的でいい。

 終了の議を執り行う理由は、たたりを恐れるからだけではない。産み出したものやことのため。ひいては自分のためである。何かをつくろうとした意志はつよいものだから、それは静めた方がいい。簡単にいえばそういうことだ。

 マスコミにももてはやされたプロジェクトが終焉するときを何度か横目でみたことがある。プロジェクトが使われるようになって久しいと、それを作り出した人はすでに去っており、使っている人も旬を過ぎ、惰性で仕方なくつかっているという状態になる。そのまま「終了」する。なんとも寂しいものである。いくら相手がものだからとはいえ、なんか悲しい気分になる。

 形式通りでよい。ポーズだけでも十分だ。終了時には式が必要ではないかと思う。修了式。意味はある。言うなれば葬儀であろう。ものやことに対する葬儀がおかしいと思うかもしれないが、その種の葬儀は結局のところ関係者に向けてのものだ。「意志」に対する葬儀であり、無意識に沈んでいる「モノをつくった気分」に終止符を打つことなのだと思う。

 内田樹のブログにあった葬儀についてのエントリーは、おそらくこういう意味ではないかと思う。そして、なるほどそうだなと、実感として感じられるようになってきた。

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