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好きなことは「見つかる」のではなく

気付くと地味に続けていたものだろう

 自分にあった仕事があるのではなく、自分を仕事に合わせていく。これができれば結果的に自分にあった仕事を得ることができる。
 
 こういう趣旨のことを養老孟司も内田樹も言っている。二人が主張する意味を論理的には理解している。しかし、感情的にはしっくりこないことがある。それは、ベッドの長さに合わせて足を切り取られるという童話が頭によぎるからである。だから、まだぼくは飲み込めていないのだろう。

 自分を仕事に合わせることに対し抵抗感をもってしまう。もちろん、勉強することは自分が変わることだと知っている。それは理解できている。しかし、仕事が自分を変えてしまうのならば、仕事を選ばないといけないと思う。なぜなら、自分が行きたい方向へ行けない仕事をする意味がないからである。避けられるものならば避けたいだろう。

 ソフトウエアをPCにインストールするように学ぶということは不可能である。何かが出来るようになると、何が大切で何が大切でないかがわかる。それは価値観や物事の優先順位が変わったということ。よくよく考えると、自分が変わったということになる。一度学んだことはアンインストール不可能なのだ。

 実際、社会人になって仕事をするようになると、仕事を最適化するように人格が変わっていく人を見る機会がある。そういう例を挙げられる人は多いだろう。ほとんど全ての人がそういう例を知っているだろう。

 それは同時に自分もそうなのだということ。自分は自分であって、価値観を含めて何も変わっていない。そう思っているはずだ。しかし、他人からみると良くも悪くも変わっている。その場合の良いとか悪いとかは他人からの評価である。自分はつねに自分であると思っている。

 自分が変わってしまうことに恐怖を感じる。それは普通である。自分が自分であるという同一性を常に自分は求めてある。自分が変化すると想像してみる。変化したあとの自分は「自分」ではないような気がするだろう。もっといえば、他人になるようなものである。それは、生物として「怖い」と感じるのだと思う。朝起きても昨日までの自分と変わってしまうことはない。だから安心して寝られる。

 しかし、自分が変化することは、場合によっては幸福を感じる。スポーツなどで出来なかったことが出来るようになる。あるいは、数学で意味不明な方程式が自明なものに感じるようになった。こういう変化は歓迎してしまう。自分自身で変化を祝福できる。幸せを感じる瞬間である。ただし、ここには錯覚がある。今までの自分に技が加わったと思っている点である。自分が変わったとは思っていないのかもしれない。

 好きなことを見つける、というテーマについても同じような勘違いがあるような気がする。自分は一体何が好きなのだろうかと考え込む経験は誰しもあるだろう。そこには「好きなもの」というものが、今の自分には知られない場所でひっそりと存在しており、ひょんなことから自分に発見されると期待している。
 
 その場合の好きなことは、好きな食べ物と同じ意味合いでの好きなという意味なのだろうか。
 
 メロンが好きであると言った場合、匂いや味、舌触りなどを合わせ持つものが「メロン」という意味である。同じような条件を持つものならば、自分は好きであろうと想像する。
 
 あるいは、これまでにないおいしい味というものが存在し、それを自分は発見していない。そういうものが果たしてあるのだろうか。なんとも言えない。
 
 好きな味というものが存在するとしよう。しかし、その好きな味の食べ物を毎時にたべていると飽きる。それはなぜだろうか? 好きな味はどこへいったのだろうか? 好きな味というものが、変化したのだろうか? かりに、メロンを食べ飽きた時に梨を食べて感動したとしよう。このときは、好きな味が変化したと主張するだろう。では、メロンを食べる前に梨を食べたらどう思っていたのだろうか? 梨に感動するのだろうか? その場合、梨に食べ飽きたらメロンに感動するのだろうか? などなど、考えると謎が多くなる。
 
 もともと「好きなもの」というものは存在しない。食べ物ならば食べた後で「暫定的な」好きなものができる。そして、それはその人の行動によって変わってくる。そういうことだろう。

 とすれば、好きなものは過去から現在までに出会ったものになる。そのなかで、好きだなぁこれ、と呼べるものがその候補になる。どんなに思い入れをもって好きになったものでも、それがある時間が経過したのちに嫌いになってしまうのならば、その人にとって「好きだったもの」とは言えないだろう。

 それよりも、対して好きなものでなくとも、なんだか長く気に入っているもののほうがよっぽど確からしい気がする。その人が本当に好きなものは、時間に耐えたものだろう。最近は待っているもの、というものはどうでもいいようなことだ。それよりも、子供の頃から好きだったというもののほうがいい。

 注目すべきものは、わりと気に入っているもので古いもの。長く気に入っているもの。あるいは、気に入っているという意識はないが、長く使っているものだ。結局、時間に耐えたものが結果論としてその人が「好きだったもの」なのだ。つまり、好きか嫌いかを言うならば、結果論で語るものになる。

 自分が好きな仕事は何か。それは、単純に長くつづいたものだ。長くやっていれば自分の身体がその仕事に合わせて最適化しているはずだ。身体だけでなく考えるクセも仕事にあうようになっているはずだ。もし、身体が考え方が昔から変わっていないのならば、どこかで病気になっているかパフォーマンスがでなくて首になっているはずなのだ。

 この話は逆も使える。好きになりたいことがあるのならば、地味に長くやるということだろう。情熱的にやると身体も頭もその変化に追従できない。だから、途中で飽きてしまう。

 人の人生は人の身体と頭がつくるものだとしたら、仕事だけではなく、自分は何が好きなのかということも大いに関係するはずだ。それは、探し求める必要がない。過去の自分を反省し、長く続いているものをその候補とすればよい。自分の時間を何に費やすのか。それって、趣味という問題で語ることではなく、人生論なのではないかと思う。

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