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一人で書く対話について

「考える」とは一人で対話することなのか

 いかにもつまらなそうなテーマである。もう使い尽くされた感がある。が、仕方ない。ぼくもそう思うようになったのだ。日の下に新しきことなし。大抵のことはもうすでにだれか考えているはずだ。古代ギリシャの哲学者がそう言っている。
 
 ブログは書くときにその内容を考える。あぁ、こういうものを書こうなど、思わないわけではない。しかし、メモをとったりまではしない。メモしないでも憶えていられるくらいのことを書く。それが普通の人のブログをなんとか成立させるものだと考えているから。
 
 書き始めると展開しなかったりする。結論のようなものがすぐにでてしまう。なぜなら、書こうと思うことは大抵結論なのだから。まぁ、そういうことである。2,3行でおわってしまう。これではあまりにつまらない。書いている人ですらつまらない。いかにもまずい。
 
 そういうときは、反対意見を考える。疑問を投げ掛ける。そうすると話が転がる。ものいう他者がいればいい。しかし、書いてもいない内容にケチをわざわざつける人はない。一体誰がぼくの意見に反論などしてくれるのだろうか。
 
 それは自分である。自分でもうひとりの自分に反論すればいい。これをオルター・エゴと呼ぶらしい。小説などでは別の人として登場することがよくあるらしい。エッセイでは、結論をのべてから「そうだろうか?」と疑問を投げ掛ける自分という姿で登場することもある。
 
 ある人の意見を聴いているとき、それに反対する人がいるとする。そのとき、顔をそちらに向けるだろう。あるいは、振り向くとか。ドラマなどでは自分物が登場するシーンでよくつかわれそうだ。ちょっとベタな演出かもしれないので、もうつかわれていないかもしれない。
 
 主張が覆されるかもしれない。音楽を聴くように話を聞いていたときには一種の危機を感じる。どうなるのだろうかと。でも、これは大切なことだろう。なぜなら、実はその瞬間から「考える」始めているのだから。人の話は音楽ではない。ある主張を聞いたとき、それは自分とどういう関係にあるのかをきちんと考えておかないと、聞いたことによって学ぶことができないから。
 
 あなたの意見に反対だと明確なメッセージをだしてくれればわかりやすい。しかし、反対意見の人は「質問」というかたちでそれを表現する可能性がある。まず、相手はの主張することを全部飲み込む。そして、その中のある部分をひっぱりだし、それに対して「わからない」と声をあげる。相手の話をからみとることが大切である。
 
 有名人の講演会などの質疑応答で質問する人は単なる自己主張をしたい人が多い。それは、質問といいつ講演会の内容を全く参照せず自分の自己紹介と自分の問題を講演者にぶつける行為は、たんなる自己主張である。有名人と同格にでもなったつもりで、聴講者に自分をアピールしているだけである。だから、大抵はどうでもいい内容である。他人が聴いても意味がないものばかり。これでは対話は成立しない。
 
 まず、反論という態度ではない。まず、自分で考えるという態度が必要である。人と意見が同じになるということのほうが、実はレアなのではないか。とすれば、意見の違いが全く反対だったら反論という形で、勘違いあるいは興味なしという形ならば質問という形で自分ので考えるとよい。すくなくとも、それを意識するとよい。そのとき初めて、人の話の内容を自分で考えることになる。話してくれた人も浮かばれるというものだ。

 これをブログに応用するとどうなるか。一人で対話せざるをえない。自分で主張し、自分で反対し、両者で話会い、解決する。なんだか説教臭くなる恐れがある。多分面白くなくなる。

 対話だから必ずつまらなくなる、ということはない。どうすれば面白いのだろうか。それは、反論が意外なものか、あるいは、そうそうと言いたくなるような反論かのどちらかだろう。読む人が読んでいることを忘れさせる仕掛けがあることだろう。笑い声をださない面白さは、自分の意識が飛んでしまうことだろう。

 ここまでくると、ブログという気がしなくなる。立ち位置がわからない文章になってしまうような気がする。まぁ、それでも面白ければいいのだけど。

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