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茂木健一郎の講義を聴きながら

聴くことと読むことの違いが気になってくる。

 人の話を聞いていて、これは音読しているのかなと思わせるような日本語に出会うことがある。聴いているときにはその論理性に全く気付かないのだけど、すらすらわかるような日本語ならば当然しっかりとした単純な論理構造をもった内容になっているはずだ。その場合、聴いているのは日本語だけど英語に置換えたって分かりやすいはずだ。そして、それが良い話というものだろう。

 本物の学者や人を説得することを訓練としたビジネスマンで、論理が強いつまり自然と論理的に考えるクセが付いている人の話だと分かりやすいものになる。感動的な授業をされる秦剛平は解説を聴いているだけで本を読んだきになる大前研一などはその実例である。

 これと対象に、話が理路整然としていないが何かを伝えたいと言う情熱だけが伝わる人もある。通常の人とは違う、という印象を受ける、エネルギッシュな人の話がそうだ。講義を受けてみてわかったのは、茂木健一郎はそう言うタイプの人なんだとうこと。ぼくが読んだ著作からはそのような印象を受けなった。もっと、冷静な感じの人かと思っていた。最近テレビにやたら出演しているようだけど、そういう番組をちらっと見た印象では、普通に話す人のように思っていた。でも、違っていた。

 まだ一回しか聴いたことがない講義だけど、ビックリするほど思いつきで話している。講義全体の組立はしてあるだろうし、そのマテリアルの準備も投入時期もあらかじめ考えてあるのだろうけど、授業はあっちへいったりこっちへいったりする。これは、良い意味でならば「スピード感がある」とか「ジェットコースターのような」という形容ができるだろう。

 楽しいことは楽しいが、しかし論理の訓練にもならないし、ましてはお手本にもならない。こういう授業をどこでもやっているのだろうとは思うが、まぁ、出来る学生ならばエネルギッシュなところから大いに元気づけられるだろうと思う。しかし、大抵の人はここから主題を学び取るのは難しいのではないかと思う。

 秦剛平と茂木健一郎と正反対な授業のタイプを連続して受けたために、いろいろ考えてしまった。どっちが正しいとも言えないし、どっちかにしろとも言えない。しかし、両者を味わうにはその覚悟と技術?を身に付けていることが必要だと思う。つまり、「何も知らないから勉強しに来ました」という人がいたとして、何も知らないに勉強の仕方あるいは人の話の聴きかたも知らないとすると、文字通り何も得られないで終わってしまうような気がするのだ。それでいいのだろうか。

 自分が理科系だからというわけではないが、概念は人から教わるよりも良い教科書や論文を繰り替えし読み、自分なりの考え、そして、計算なり実験なりという形で現実と比較する作業が勉強の過程には必要だ。授業で知ることは、きっかけでしかない。聴いてそれで身につくことは多分ない。へぇ、そういうものがあるのか、後で勉強しようっと。そんな機会を提供するものが授業であると思っている。

 しかし、カルチャーセンターはそういう訓練をしなかった人が多いのではないのかと勝手に想像する。真実の程はわからないが、いわゆるプロの人は来ないだろう。とすれば、どういう風に題材を提供すればいいのだろうか。

 おそらく、大学で本気で勉強しなかった人ならば、カルチャーセンターは「テレビ」だと思ってくるのだと思う。授業に参加するのはチャンネルをつけることだと思うはずだ。面白ければラッキーだ。そして、テレビならば番組が終わった時点で勉強も終了することになる。講義の最中だけが「勉強している」ということになる。となれば、当然「身につくものはない」のが現実だろう。カルチャーセンターは娯楽提供ならばそれいいはずだ。

 しかし、と立ち止まる。本当にそうなんだろうか。

 茂木健一郎の授業は大人気で、人が一杯いた。しかし、何をみんなあの2時間で学んだんだろうか。そもそも講座名と講義内容は違っているのだから、講座名をたよりの受講した人は「違うジャンかよ」と言っているだろう。そんな状況でも、ああいう感じでいいのだろうかと疑問に思う人はいないのだろうか。なんて思うのだが、ほとんどの人は「とても勉強になった」という感想をもって家路につくのだろうな。

 考える時間というのは他人が提供することはできない。自分で見つけ出しスタートさせる必要がある。でも、いくらなんでも考えるようなポイントを分かりやすいように提示しないでも、いいのだろうか。

 などと、いろいろ考え込んでしまった。自分が大学院で何かを話をする機会があったら、秦剛平と茂木健一郎の中間あたりを狙うことにしたい。

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