HOME > 2008 > 16 Jul

歳をとってからでもできること

始めてみれば続くもの。大敵は「助言」。注意しよう。

 何をやるにしても、始めた後の時間が問題であって、何時始めるかはどうでもいいような気がする。
 
 子供のうちに、若いうちに始めた方がいい。大抵のことはそう言われている。しかし、それは誰かが自分のアウトプットを利用しようとしているときの言葉だ。活動だけを見るのならばいつから始めたのかは関係がないはずだ。
 
 英語や職人技のようなものは、子供の頃から始めるに限ると言われている。が、これも、その人を通訳としてお金を払って仕事をしてもらおうとか、その人の作るものを購入しようとかいうことを考えているからだ。
 
 そうでないならば、何時始めたのかは忘れていいはずだ。もっと言えば、自分のためにやる、自分が興味をもっているから、出来たときを想像するとわくわくするから、という理由ならば、もはや他人の助言なんて関係ない。どうしてある?

 助言はその内容が大切なのではなく、誰が言ったのかが大切なのだと思う。これは経験則だ。
 
 いくつもの道に秀でることは大抵の人は不可能。だから助言をする人は熟知している内容についての助言が有効だ。そうだろう? その人が知っている内容にドンピシャなことを助言できなくとも、ある範疇のことならば助言は有効だろう。
 
 ただし、注意がいる。それは、「人を見なければならない」ということ。個人的な経験でしかないが、たいての人の助言は助言される人のやる気を萎えさせることが目的なのだ。とくに普通の爺さんの意見はそうだ。オレはすごいのだ、ということを遠回しに表現しているだけだ。やっかいなのだ。
 
 爺さんでない人の助言は、おれの縄張りに入るなという警告であることが多い。誰の助言かをまずかんがみる。そして、その人の助言に耳を傾ける。こういうことはやめろと言われるかもしれないが、その辺に歩いている人の助言が「金言」なわけはない。当たり前である。
 
 この人は本当にそう思っているのだろう。正しいかもしれない。自分が偉いということを考えている人だとはゆめゆめ思えな人ならば信用すう。そう、最後は自分の判断が介在する。だから、助言に従うといっても、自分なりに考えることになる。
コメンテーターとかストラテジストとか、発言内容が発言者に跳ね返ってこない人の助言は全部無視したほうがいいだろう。
 
 大切なのは内容ではなく、誰がそれを言っているか。

 物事を初めて何を身に付けようとする。身に付けた技で生活するため。しかし、生活を支えるくらいの技の獲得は普通の人には難しい。

 それは本当だろうか? ふつうに生きていくためには生活が必要で、それには生活を支えるの技がいる。しかし、その技は優れたものである必要はないだろう。優れていてもいいけど、普通の生活のためには普通の技があれば十分だ。

 この部分に気がつくかどうか。

 「優れた」という評価は、「珍しい」という意味を含む。しかし、社会で必要とされる技(仕事)は、珍しい必要はない。農業や漁業から始まる職業のリストは、結局社会が必要としている役割のリストである。それはとくに人間離れしたような技を必要とするわけはない。ただ、誰かがやってくれるといいのに。そういうものだ。
 
 そもそも、希少性のある技は本当に必要なのか。生活に余裕が生まれると「変な」価値を見つけたくなるのかもしれない。いわゆる「遊び」というやつだ。遊びは楽しい。その意味で必要なのだ。珍しいなぁ、へぇ、という気持ちを呼び起こすために希少性の価値はある。芸術は感動を呼ぶための媒体だから、これも遊びなのだ。
 

 そんなことを考えているうちに、時間がたってしまった。結果を求めるものと過程(プロセス)を求めるもの。両方は分けて行動しないといけない。単にそれを言葉にしたかっただけで、まとまりの悪いエントリーになってしまった。

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