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書いているうちに内容がでてくる?

何を書こうか決め手から書く、とするとなにも書けん

 ビジネス文書の本を何冊か読んでいる。バーバラミントが一番である。それまで文章などあまり書かなかった人間からすると、この本の手順は実に明確で実践てきで、これまで出会った全ての国語教師よりも有効なアドバイスをくれた。

 ピラミッドプリンシプル、SCQAの展開、MECEなど。いわゆる文章のスケルトンを教えてもらえる。そして、スケルトンをまず描き出し、それに内容を詰めていく。そうすればわりとちゃんとしたエッセイなり報告なり論文なりがかける。ホントである。

 しかし、こればっかやっていると問題がおきる。パターンを追うことは最終結果の最低ラインを保証する意味では有効なのだが、数年たつとつかれてくる。僕はバーバラミントを意識して文章を書き続けてきた。文章なんてド下手だったから有り難かったが、7,8年やりつづけると疲れてくる。というか、なんだかつまらなくなる。

 最近は多くの芸能人がブログをつけている。アルファブロガーと言われる人もブログも多い。ただし、所詮ブログだということで、読み続けるには辛いものが多い。内田樹のブログは例外的に読み続けられうが、極東ブログはぼくは高度過ぎてしまうことも多いので大抵パスしてしまう。よい内容だとは思うけど。

 携帯電話で書き込んでいるようなものは細切れの言葉と写真で構成されている。有り難い人の言葉でもなければ、なかなかやっていけない。しかし、有り難い人ならば十分面白い。最近いろいろブログを覗くようにしているが、非常に制約された空間でのブログでありながら、ついつい見てしまうものも結構ある。もちろん、文章というか言葉の操り力とは違う意味で魅かれる。いってみれば、演出に魅かれるのだ。

 では、普通の人はどうするか。日記か感想かにおちつく。日記はまぁよしとしよう。文章を書くとき、日記から始めるのは常道だ。小学校からそういう風に教わっているのだから。

 一方、時事ネタを相手にするのは難しい。なぜなら、事件に対するコメントを載せるだけになる。なぜなら、新聞報道から事件の確信に迫れるわけがない。大抵の記事は記者の誘導がある。同じ結論にいかせようとしているものばかりうんざりする。

 それに気付かない場合、まんまと扇動されて記者の準備した結論に落とされるだけである。要するに、ニュースをもとにした事件についての個人的判断は、実は個人的な判断ではないのだ。だから、時事ネタは難しい。

書いているうちにわき出るって本当か

 小説にはプロットというものがあるそうだ。Wikiをはじめいくつか説明を読んだのだが、プロットって結局なんだかわかなかった。いまでもわからない。話のポイントが点々とした概要なんだろうかと想像しているが、違うかもしれない。わからない。

 小説の書きかたなどを読んで見るとプロットが大切だと書いてある。それこそ皆口をそろえてそう言っている。そういえば、小説を評論でもプロットがいい悪いという記述を見かける。

 それって、ストーリー設計のことなんだろうか? つまり、話を書く前に骨格というあスケルトンを最初につくり、それにしたがって肉付けしていけと言っているのだろう。その骨格が悪ければ悪いだけで終わってしまうことになる。つまり、骨格が悪いと何をやってもだめ、というのだろう。

 そういうことならば異論はない。そりゃそうかもしれない。設計がわるければ何をやってもだめだろう。それは工学的な製品というか物理的な制約をもった製品の場合はどれにも当てはまると思う。しかし、小説は違うだろう。

 発端だけ準備しておいて、それにしたがって語り始める(あるいは書き始める)とその状況からストーリーが生成されるということはあるんじゃないかと思う。想像力は物理的な制約を受けないから。どんなに飛躍しても、それが面白ければいいはずだ。そこに物理に制約はないから。

 恩田陸の小説が僕は好きだ。恩田陸のエッセイを読むと、かならずしも事前設計はなされていないようだ。というのは、「一体この続きはどうなるのだろうか?」と作家がワクワクしながら書いているとある。すくなくとも、設計図のような下書きをしていないようなのだ。プロットというのが頭にあるからなのだろうか。

 頭の中にあるものは、たいてい実際以上に良いものに思える。気分がいい。おれは天才だななんて思えるくらいだ。しかし、一度紙に落として眺めてみると、そんなに面白くなかったりする。大抵のアイディアにはそういう性質をもっている。

 頭の中にあるプロットも同じだろう。ワクワクしながら書き始めて、うまくいく場合もあるし行かない場合もあるはずだ。著者の想像力は書いているときに生成されているはずだ。あらかじめあった筋に具体的な内容を盛り込んでいるという、粘土細工のような作業をしていないと思う。

 そう考えると、ブログも同じかもしれない。テーマくらいはあってもいいが、書いているうちにいろいろ思い浮かぶことがあり、それを言葉にする。それだと話がまとまらないことがある。落ちがないことがある。確かにそうだ。しかし、途中の展開は、流れにまかせたほうが、流れるように読めるかもsりえないし、計算された論理性ではなく意外性に満ちたものになる可能性もある。落ちは、最後の努力なのではないか。

 最後にきちっと落ちがつくか。それがプロとアマの違いなのではないかと思う。恩田陸ですれら、途中まで面白かったが着地に失敗した作品がいくつもある。ならば、素人ならばより失敗するはずである。

 いろいろな展開をしたが、最後の着地がうまくいくかどうか。こう考えられないか。最後に全体と関係する落ちが着いたものが良い作品となると。

 このエントリーはなんとなく書いたらどうなるかを試したのだが、自分で得た結論を自分で実践できないで終わりそうである。落ちがない。

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 この本は何度読んでも言い本。高校生あたりからきちっと教えて欲しい。日本文学を観賞するなんてのは少々減らしても問題ないのだから。