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楽しいのは生きているProcess

過程が重要であって評価はいいや、という選択

 生きている。それも数十年という時間の制約の中でそうしている。なにをやっても、最後は寿命という死刑を受けることになる。

 まったく当たり前のことである。だれも反論しないだろう。そういうものだ。「そんなことは知っている」と言われる。

 養老孟司のエッセイで読んだ事がある。死ぬという事実は皆知っている。しかし、だれも自分が死ぬとは思っていない。正確な文章を憶えていない。しかし、だいたいこういう趣旨の内容だったかと思う。

 この文章を読んで、そうだな、と思ったのだが、そういう自分も自分が死ぬとは思っていないような気がする。いや、事実としてはそうだ。そして、災害にあうこともあろう。惨めな死に方になるかもしれない。実に不条理な目に会い、死ぬほど腹がって悔しい思いをするかもしれない。歴史上そういう想いで死んでいった人は何人もいるだろう。また、その逆の人もいただろうし、そしてまた、今でもいるだろう。つまり、要するに、そもそも人の生死など不条理なものだということ。誰も人の生活など監視していない。だから、因果も神も仏もないのが人生であろうと想っている。

 とてもよいことに、どんなに悪いやつらでも良いやつらでも結局死んでしまう。死ぬという意味からすると、その死は寸分たがわず同一である。つまり、人生のゴールは人の行動の善し悪しや運不運に限らず同一なのである。

 だから、人生にゴールなどない。あるはずがない。何かをした「結果」が問題だとしたら、なぜ最終的には同一の結果のためにいろいろな試みをするのだろうか。人生のゴールは死なのだ。だから、ゴールのためにがんばるというのは文字通り「ナンセンス」なのだ。

 どんなゴールを設定しようと意味がないとすれば、何を大切に想えばいいのか。それは、過程である。プロセスである。死に至るまでの過程であって、最終的な状態ではない。何かをしきった後が問題ではなく、することそのものがゴールなのである。

 具体例でいわばかわる。のどが渇くと水を飲みたくなる。一番心地よいのは飲んでいるときであって、飲み終わったときではない。酒飲みがちびちびやるのは、飲みきった泥酔が目的ではないからだ。飲むという行為そのもが目的だからだ。わかっているのだ。

 酒飲みのように人生を生きるのだ。ちびちびやるに限る。腹が立つことも悲しいことも、最後は死になって解けてしまう。ならば、悲しさも楽しさも死以外のものなのだから、それをちびちびやるに限る。名誉だとかステータスだとかポジションだとか、人の約束事そのものを追ってしまうは、野暮なのだ。

 早く有名に、早く立派に、早くエラクなりたいという動機で生きるなど、一気のみと同じで実にばかげたものである。もっとも、だれもが人生が初めてで、だれもがその年齢を生きるのが初めてなのだからバカなことをやるのは仕方がない。しかし、ある程度生きられたならばそんなことぐらい気付きたい。

 ゴーヤチャンプルのゴーヤの意味がわからない。なぜ、まずいものをいれるのか。ぼくは未だにわからない。出来ることなら食べたくない。しかし、そういう苦味が人生には必要だ、などと言うつもりはまったくない。なければないに越したものはない。わざわざゴーヤを食べる必要はない。

 そうでなく、食べたくなくとも食べざるをえないときがあり、そのときは仕方なく食べましょうね、と言うことを言いたい。普通の生きているときも、なにもわざわざ不幸になるような道を歩く必要はない。自愛するほうがいい。ただ、目的はゴールではなくプロセスにあり、プロセスの工夫がその人なりの人生であり、それを楽しむことができたら人生は上がりの感がある。そういいたい。

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