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真剣さによる解決

人が気になるようでは真剣さが足りない

 他人の目が気になるとか、評判が気になるとか、別の人がどう思っているのかあるいはどう思われているのかを考える時間が多い人は、真剣に生きていないのだと気付いた。

 真剣という言葉は、つまらなさとは別である。笑い声が絶えない真剣さというものもある。もちろん、座禅のような真剣さもあるし、武道のような真剣さもあるだろう。ここでいう真剣さは、要するに、他責性の排除である。自分以外の人が自分に影響を与えた結果現在の自分の状況があると考え、他人を非難することである。

 あの人が悪い。あの人の考えがおかしい。誰々に責任がある。この類の発言、あるいはそもそもの発想が他責性の元凶である。このラインで考える限り、自分は人生におけるプレーヤーではない。

 他人が悪いとか予想外の行動とか、まさかそんな人だとは思わなかっただとか、自分は損だなとか、そういう発想を全部やめることは、実はほとんどできない。少なくともぼくはできないでいる。それでも、他責的な発想をし、そう発言してしまうことがあるのだけど、なるべくそうしないように考えているし、また、他責にしてしまったなと自覚するよう努力している。自覚すればそれでいいわけではない。自覚したらやめるようにし、次第に自覚前に抑制することを目標としている。

 仮に本当に他人のせいであるとき、どうすればいいのか。内田樹のブログにあった。「まぁ、よい。許す。」と言うことである。実は失敗の責任はいかなる方法でもとれない。仮に責任をとって死んだって、過去が変わるわけではない。つまり、本質的に責任などだれもとれない。そう考えると、責任追及などしても仕方ない。

 ただし、何があっても過去のままである必要はない。まぁよい、許す。このレベルを保つかどうかは、自分自身の状況による。何よりも自分が死んでは意味がない。とうことで、自分自身が失敗の損失をかぶれるようならば被ればいい。しかし、そうも言っていられないならば逃げることだ。

 逃げる。ただし、条件がある。それは、他人の失敗は自分が指示した結果ではないことがはっきりしている場合に限る。部下の失敗というものがある。それは上司部下という関係においての失敗であれば、責任は上司にある。それがシステムである。個人でやっているのではないからだ。しかし、対等なレベルでの付き合いならば、自分が負担できない損失ならば逃げることだ。

 対等という関係は実に孤独なものである。そう考えるかどうかはその人たちの関係次第である。他人の失敗の損出にどこまで耐えられるのか。信頼できる友達ならば損出許容額がかなり大きくなるはずだ。そういう人がたくさんいるのは財産だと思うけれど、普通そうはいかない。

 責任という言葉が頭に浮かべば浮かぶほど、無責任になっていくような気がする。あることを真剣にやるのならば、その対象について考える時間を限界まで増やすことだ。そして、身体も動かす。

 この場合の責任は「失敗の責任」という意味と「自分の役割を果たす重要性」という意味になる。ぼくは分割して部分的に役割を果たすということは「嫌い」なので、失敗の責任も役割もどうでもいいと思っている。全体としてうまくいくかどうかを真剣に考えれば、自分の役割を越えて他の人を助ける必要があるし、助けてもらう必要がある。だから、役割って、とても柔らかくて透けた壁にしておくことが大切で、だから「自分の責任」などとつよく主張することは反対である。

 何かをするプロセスが大切なのだ。そのプロセスと関係がないことは全部すててしまっていい。何かをするプロセスに他人からどうみられるかというような評価が関係ないならば、それも捨ててしまっていいではないか。とまぁ、こういうことである。

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