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飛行場での儀式

道中安全でありますようにというジンクスとは違う

 飛行機に乗る。窓際の席だったときには、必ず見るようにしているものがある。日本の空港ででしか見れないものである。それは、駐機場から滑走老へと動き始めたときに見ることができる。
 
 その人たちの名称は知らない。メンテナンスをする人たちであろう。飛行機の移動を指示する人か安全を確認する人なのだと思う。ヘルメットを被っている。そんな人たちが飛行機の脇、少し離れたところに背筋を伸ばして立っている。そして、飛行機が移動し始めるとお辞儀をし、飛行機に向かって手を振ってくれる。
 
 飛行機は車や電車より事故に遭う可能性が高い。離陸するときはそういう覚悟がいる。そんな気持ちを考えての手を振るという行為が生まれたのだろうか。あるいは、まったく別の理由からだろうか。そんなことはわからない。しかし、窓から彼らが手を振ってくれているのをみると、職種の機能とは直接関わりないこの行為に感動してしまう。
 
 外国でもこういうことをしているのだろうか。それは知らない。しかし、少ない経験から判断すると日本の空港でしかこういう行為を見たことがない。機能的に意味がないとなれば、そういうことを作業員に指示する論理的根拠がない。だから、職業として定義することができない。だから、日本以外ではないだろう。
 
 出発する人に向かって、しかも見ている人がどの程度いるのか不明な状況において、さらに、炎天下だったり極寒状態であったりしても、この職業の人は無為に見える行為を続けてくれる。なぜだろうか。
 
 職業的な美学を全員がもっているとは思えない。だから、実際問題は習慣なのだろう。儀式だろう。心がこもっていない人も多いだろう。全く形式的な人も多いだろう。
 
 それでも、見ている人は感動する。感動させるものは「儀式」である。儀式を執り行っている人の心に感動しているのではない。儀式を行っている人のここの中まではわからない。それでも感動するのである。その理由があるとすれば、それは「儀式」そのものである。儀式という演劇にぼくは感動しているのだと思う。
 
 儀式は過去の人がつくったものである。パフォーマンスである。ならば、工夫というものが積み重なっているだろう。効果がないものは消え、良かったものが残る。そして、効果があったはずのものの「意味」が忘れ去られてしまい、なぜ意味があるのかがわからないまま形が残っている。儀式的という言葉の意味がそうである。

 原因と結果が直接結びつくような単純なものではないのかもしれない。だから、ちょっと考えても意味などわからないのかもしれない。駐機場から出発する飛行機に手を振る。その行為の本当に意味はわからない。しかし、わからないからといってなくすことはない。自分がわからないだけだろうから。

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