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どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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卒論を落札することとプロジェクトマネージング

やっていることは同じ。いいものを買ってきて組み合わせるのだから。

 授業の課題や修論、卒論などをアウトソーシングしている学生が増えているそうだLinkIcon。この記事のコメントにもあったが、これって批判できることなのだろうか。社会人になり、効率効率とこだわる人は同じことをやっていないのだろうか。
 
 一番時間がかかることは、これまでないことを考えること、難しい問題を解決する道筋をつけること、自分の身体をつかって何かができるようになること、などであろう。こういうことは、何時出来るようになるのか事前に知ることは不可能だろう。予定表にいついつ完成、などと書き込むことはできない。何時出来るかは確定してない未来だ。

 それじゃ、プロとはいえぬ。うちにお金をくれれば記述までに完成させます。ということで会社が成立する。その会社が提供するサービスを購入側は心配しつつも予定を立てられる。小さなスケールから大きなスケールまで、このような構造が人の社会にはあると思う。あらっぽい理解だけど、ぼくはそう考えている。

 卒業するまでに論文を書く必要がある。まともに学問をやっていると、全ての人がそうできるはずはない。だから、留年する人は結構いる。実際、博士号になれば何年もやる人はたくさんいる。予定通り結果がでるようなことをしてないから、努力してもダメな場合があるし、だからこそ研究している。予定が立つようでは、やる必要がないことをやっているような気分もする。逆に言えば、結果がでた段階で卒業が確定する。時間ではなく、結果がきめるというものだ。

 この話を聞いて、なるほど大掛かりなプロジェクトを担当する人は、卒論を買ってくるというメンタリティーなんだろう。良い卒論をちょこちょこ買ってきて、編集し直し自分のものにする。手に負えない場合、内容を仕様にまとめ、発注する。できたところでお金と交換し、成果はプロジェクトの名前になる。なんだ、そうだったのか。

 ならば、卒論を購入し自分で手をいれて自分の名で発表するという人は、あるいみプロジェクトを自分で実施しているようなものだ。それが社会的に悪とはいえない。よい結果をだせるならば、もっといえば「結果が目的」ならば、それでいいような気がする。卒論の質が大学の質をであるならば、なんの問題もないような気がする。

 一方、目的が「結果」ではない人には、卒論を買ってくるというセンスがほとんど理解できない。感情からおかしい。それじゃ、なんのために大学に行くのだろうか? お金を儲ける、社会から尊敬される、歴史に名を残すなどといったことが目的ならば、必ずしも大学に来る必要がない。どころか、そういう人は大学で勉強していないのではないか? 自分自身が良くなりたい。わからないことがわかるようになりたい、できないことができるようになりたい。そういう動機があるはずで、そういう動機の人が他人から結果を買ってもしょうがないではないか。

 システム指向という人がある。システムエンジニアは人気の職業である。ならば、いっそのこと、そういう方法でどれだけよい論文をつくれるのかということを、システムエンジニアを教える学科の卒論にしたらどうだろうか? あるいは、編集者だって同じだろう。いかによい題材を見つけて、それを構成するか。世の中やりようが一杯あると思う。

 自分でやれることがなにか。これはその人と話をすればすぐにわかってしまう。何を知っているのか、どこまでできるのか。その道の人ならば、明々白々。だから、口頭試問をつければ、どんな卒論を書いたっていいんじゃないかとも思う。どうせこの先インターネットが更に強化され、それが前提で育ってくる人が大多数になるのだから、編集能力に長けた人も必要なのではないか。学問なり研究なりをする人は特殊な人であって、それが人気商売になったり就職に有利になるようなことがなくなればいいだけだ。おそらくだが、そういう世の中になるだろう。

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紅茶を飲んでぼんやりしていると
心に浮かぶ風景

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フィレンツェの聖堂
 
最近なにかと話題になるフィレンツェの聖堂。
この場所は世界遺産である。
当然綺麗である。

しかし、行ったことある人なら
知っているはず。
かなり落書きだらけだ。