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どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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被害者になることをやめる

その言葉の意味がだんだんわかってきた

 被害者である。そう主張する記事、ニュース、宣伝、あるいは、会話の中。注意することたくさん目につくようになった。意識していない見過ごすことになる。世の中、おれは被害者だ、という趣旨の発言はいたるところにある。ウソだと思うのならば、電車にのるなり、テレビをつけるなりして耳を澄ましてほしい。要するに、おれは被害者だ、とう内容が多いことに納得するだろう。

 真の意味での被害者は存在する。それは助けてあげようと思っている。通り魔の被害者などはそうだ。しかし、結果的に被害者なのかもしれないが、それって防げたのではないかという類の被害者もいる。いわゆる詐欺事件だったり、あるいは、誰々に利用された、という類の話しだったり。例え生死が絡んでいても、そもそもの原因はどちらなのか注意して分ける必要がある。これまでぼくが目にするものは、大抵後者になる。それに気がついた。

 被害者かもしれないが、そもそもあなたにも原因があるんじゃないか?と思わせる件の被害者について考える。以下での被害者とは(被害者)と表現する。

(被害者)であることを主張する人が多いのは、(被害者)であればトラブルから抜け出せる権利を持っていると主張できるからである。(被害者)はそうでない人よりも優遇されるべきだと考えるからである。子供が外で遊んでいて事故に遭うと、子供は(被害者)になる。そして、危険を放置した責任を追及するなどといって、最終的には役所なり会社なりがいじめにある。それをマスコミが煽る。この件につて、それって子供も不注意だし、親も見張っていろよ、という追求は全くなされない。一種のタブーになる。そういう事件は毎日ある。確かに役所のタスクは人間の動機を無視したものだから、よい仕事などできるはずはないが、それとわかっているのならばそんなものを信用する方が悪いだろう。などという発想は(被害者)には全くない。(被害者)は一種の特権階級の人になる。マスコミの記者会見を見ていているとそういう気分がする。

(被害者)が優遇されるのは社会に余裕がるからである。社会が疲弊してくれば(被害者)になったところで、優遇されなくなる。社会の構成員が明日の我が身だと思っている間、あるいはマスコミは正しい主張すると世間で認識されている間は(被害者)の地位は安泰である。

 となれば、便乗する人が出てくる。勉強をしないで成人したのはゆとり政策のせいであって、自分は(被害者)なのだ。あるいは、子供が電車に飛び込んで自殺したのは、自殺が可能な駅の構造になっている鉄道会社のせいで、子供は(被害者)なのだとか。なんてことはな、アホがたくさん表にでてくるということだ。そういう人が少ないあいだは社会で吸収できれるが、多くなると社会が回らなくなるだろう。というのは、(被害者)と認定されても、だからといって特典がないということになるから。

 では、どうすればいいのか。簡単である。(被害者)の災難はよく考えれば防げたものが多い。ならば、よく考えて行動すれば(被害者)になどならないですむ。(被害者)になったところで、だれも助けてくれないと理解すれば、(被害者)にならないように注意するだろう。子供が小さい家は、いろいろ教えないとダメだし、交通が複雑ならば子供が小さいうちは親がカバーに回らないといけない。そういう簡単な話である。

 こういう当たり前の教育策を影響力のある人が、事件発覚直後に発言してくれれば、少しはみんな考えるようになると思うのだけど。まぁ、無理だろうな。ということは、気がついた人は自分の防衛に選手せよということになり、つまらない世の中だなぁと思うだけだ。

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紅茶を飲んでぼんやりしていると
心に浮かぶ風景

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木と空
 
なんの変哲もない木。
背景に青空。
しかし、信じがたいくらいきれいな風景。

最近のデジカメは、
本物以上にきれにうつる。