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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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持っているものを知る

不思議なことだが、持ってしまうと見えなくなる

 自分の持っているものは、道具であれ能力であれ、持っていると感じることができなくなっている。自然とそこにある。そう思ってしまう。だから、いろいろ持っている割に、自分はなにも持っていないと思ったりして落ち込むことがある。じつに不思議なことだけど、そう思うことは多いのではないかと思う。それは身長だったり、英語力だったり、スポーツカーだったりと年代や置かれた状況によっていろいろ変わる。他人に愚痴をいったりして、周りの人をイライラさせたりすることもある。お前、あんじゃねぇかと。

 原点に復帰する。初心にかえる。これはじぶんの立ち位置を過去に戻ったとして想像し、今の自分を見てみることがある。スタート地点が過去であればあるほど、いろいろなものを持っていることに気付くだろう。道具やモノ、そして、能力。学生の時に欲しかったものはもっている、数年前よりも英語力は明らかに向上している。すこし冷静にものを見ることが出来るようになっている。ほら、意外にいろいろあるでしょ? そうだよな、確かに自分は向上しているよ。そういう部分を噛みしめてみることが必要だ。それが、幸せの一つの形であるのは間違いない。

 なぜ、持っていない、と感じるのか。それは他人を見るから。他人の持っているものを自分は持っていない。他人が欲しがっているものを自分も求めているような気分になり、それを無意識ながら欲しがってしまう。こうなると、たいていのものは持っていないということになる。どうして、こうも自分は何も持てないでいるのだろうかとがっかりすることになる。まったく、それは勘違いなんだけど、仕方ないことでもある。

 自分が持っているものを「当たり前」だと思ってしまうことも原因だろう。周りの人からみるとうらやましく思われるポジションに自分がいても、普段目にする人はそのポジションにいる人ばかりだから、そのことに気付かない。だいたい同じような立場にいる人とずっといることで、見えるものも同じモノになる。同じものばかり見ると脳はそれを消す。だから、細かい差異が見えてくる。そして、それをスゴイ違いのように感じてしまう。説教や教訓、格言のたぐいは、だいたい「常に見ているものは見えなくなり、どうでもいい差異が強調されて価値を帯びてくる勘違いをあなたはしているよ」というものだ。この話は、議論する価値のないくらい、解明されている。それなのに、リアルな自分の人生はその迷路にはまりこんでしまっていることに気付かなかったりする。まったく、しょうがないものだと思う。

 この状態から抜け出る方法として原点に復帰することを上げた。具体的にはどうすればいいのか。昔のアルバムを見返す、学生時代に書いたものを読み返す、昔の友達に会って昔の話をする。なんだ、世間人はよくやっているではないかと思うだろうけど、それって人々が無意識に原点復帰を行っていることを確信させてくれるものだ。

 もうひとつお気に入りの方法は、昔よく行った場所に行ってみるというものだ。学生時代によく行ったお店や喫茶店、食堂があれば、そこへ行きその当時に飲んでいたもの、食べていたものを食べる。味や匂いというものは、記憶の中枢にダイレクトに作用する。意識的に思い出す努力などなにもする必要がない。昔の味のかけらでも味わえれば、自分でもビックリするくらい昔のことを思い出す。知識として思い出すのではなく、その時代の気分が蘇ってくる。そして、それは楽しい。

 そういう経験の後、今に戻ってくる。そうすると、意外にうまく行っているではないかと思えてくる。それは、ステレオタイプの未来ではなく、自分がいいなと思える未来が今の自分にあると気付くのだ。大抵の人は、自分が想像したものから大きく変わっていない。もちろん、大きく変わった人もいるだろうけど、大勢の人はだいたいよいところに修まっているのではないかと思う。

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紅茶を飲んでぼんやりしていると
心に浮かぶ風景

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不思議な建物
 
実家から不思議な建物がみえる。
狭い下町の一角の中央にある。
黒い建物。

一体どうやって資材を運んだのか。
重機をどうやってつかって建てたのか。
場所からすると、重機を使っていないのか。
足場はどうやったのだろうか。