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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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たまにはそもそも論へかえるほうがいい

そもそも論というか、初心というか

 ちょと爺さんの説教のようなことを考える。よく言われることだけど、たまには「そもそも論」に戻る必要がある。なんに対してと問われても、何に対してもと答える。普通に生きているだけでも、そもそもオレは何をやろうとして何をやっているんだっけ?と問う。それに意義はある。年がら年中疑問に思ってばかりだったらダメかもしれないけれど、1年に一回とか半年に一回とか、3ヶ月に一回とか、決まった周期でちょっと冷静になることは必要だろう。

 ずっと同じことをしていると、同じことは見えなくなる。同じだから退屈になり、注意から消える。目の前に起きていることでも、その中で生きていることでも「え、そんなことあった?」となる。当たり前なことが当たり前でなくなってしまう。そして、ちょっとした事件があると「あ、当たり前と思っていたことは、実はちがっているのか」と気がつく。こういうテーマの小説はよく見かける。よい映画も同じようなメッセージのものを知っている。

 よく見かけるのならば、知っている人が多いだろう。なぜ、ここで改めて話題にするのか。オレだって知っているよ。そう、考えるだおうけど、よく知っているから見えなくなるという内容なのだがら、よく知っているからこそ思い出す必要がある。無視している間は、ある意味死んでいるようなもので、あとから考えるともったいない時間の使い方をしているのだと思う。こうして書いているのも、自分に言い聞かせるためである。

  当たり前になっていることを感じるきっかけを増やすとよい。しかし、自分に事件がよく起きるのは困ったことだ。そういう場合、当たり前だけど、他人をよく見ることだ。みんな普通に生きているようでいても、結構困った問題に直面している人はよくいる。そのそぶりに気付くよう注意して他人をみる。いつもと違ったことはないか、沈んでいないか。何もしゃべらない状況でも、意外に深いことを周りに人は考えていたりする。それはすごい思想というものではなく、日常のありふれた事件について、脳が再三思い出させているのだったりする。

 こう考えると、何かが起きて自分が感じる、という状態はすでに「不幸」なんじゃないかと思ったりする。もちろん、ビックリしてうれしい、ということもあろう。しかし、それはほとんど起きないことなのだからうれしいのであって、言葉通りほとんど起きない。だから、生きている大半の時間はムダになる。一方、自分が何も感じない状況というのは、極楽のようなもので、地味な幸せを感じつづけることが可能ならば、生きている大半の時間は幸せになる。戦中戦後に若者だった人の話を聞けば、いつも空腹だったという。しかし、今の日本ならばたいていの人は空腹という機会をもっていない。空腹だから食べるのではなく、時間が来たから食べるのだから。しかも、あっさりしたものが言い、などとなるべく食べない状況を再現しようとしているくらいなのだ。それって、モノがある幸せを棒にふっているような気がする。

 上をみたらきりがない。確かにそうである。億万長者に現実感を感じないのでうらやましいとは思えないが、同僚がラッキーだとうらやましくなるのは普通だ。下をみてもきりがない。アフリカの飢餓をみてもなんでそんなところに住むんだろうとしか思えないのだけど、損な仕事しか回ってこない人に同情することは結構ある。結局、自分の近い範囲でも不幸と幸福しか感じることはでできないということ。その中心あたりに自分がいる。

 幸せ感を感じるには自分の考え方一つなんだと思う。いかに軸をずらすか。それに成功すれば、毎日は楽しいものになるのではないかと思っている。

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紅茶を飲んでぼんやりしていると
心に浮かぶ風景

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内堀通りの一瞬
 
自動車が視界から消える。
信号のタイミングで、
たまにそういうシーンに出くわす。
 
空が青く、雲が白い。
などと、関係ないことを思う。
次の瞬間、また車がわんさとやってくる。