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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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ダメ人間とダメな結果とはあまり関係がない

誰がやってもダメな結果、偶然にダメになった結果もある

 誰がやってもうまくいかないことがある。しかし、そういうものに限ってくじを引いてしまう人がいる。汝の名はダメ人間。なにをやってもうまくいかない。うまくいかないときはその人が関係していることが多い。そういうことが続いてレッテルを貼られたため、関係ないことでも失敗したことはその人の周りに集まってくる。汝の名はダメ人間。そういう人っているんですよ。

 なぜそうなるのか。連想記憶が働いているから。因果と相関は本来関係ないことなのだけど、たいていの人は因果=相関になる。レッテルのもとに結果が集まると、なんとなく皆が安心する。つまり、一種の秩序が形成される。別の言い方でいえば、物語がそこに立ち上がっている。そして、既に立ち上がった物語は、関係者全員でのその物語を演じている人たち。不思議なことだが、そういう役回りを演じてしまう。その結果、ダメ人間と言われた人に結果が集まってくる。そう、汝の名はダメ人間。そういう仕組みでその物語性は教科される。

 大切なのは、関係者全員がダメ人間が登場する物語を演じているということに気がつかないで、あるいは無視して演じ続けてしまうことだ。一度立ち上げたキャラクターはなるべく壊したくない、という意志が働く。まったく、面白いことだけど。そして、思うのだが、世の中のいじめの原因は大抵この物語性にあるのだと思う。もちろん、不満のシンクとして登場した人物はとにかくその役を演じてもらう必要がある。そうでないと、たたりが自分の身におきるから。

 その大枠に気付くと、世間では厳密な意味での因果などあまり求められていないことがわかる。状況を冷静に見ることが出来る人がダメ人間の役をわたされると、世の中不条理に見えてくる。その人が書いたものが残れば、周りの人もその不条理性に後々気付く。しかし、気付くはあくまでも「後」なのだ。

 逆の視点。ヒーロー役を演じている人にも同じ状況が働く。一度ヒーローになると、秩序を守ろうという気分が発生する。するとヒーローの失敗が知らないとどころでダメ人間に移行され、ヒーローはよりヒーローに、ダメ人間はまったくダメ人間に、現実とは関係なく周りの人が「筋道」をつけてくれる。そして、それが事実だと信じていく。Runaway Growthする。実は対したことない人がヒーローになるとその社会は結構な悲劇か起きている。歴史をひも解くと、その実例ばかりになって、なんとなくアホな気分になる。おそらく、今後もそれが続く。そのな歴史だから、いずれ破綻する。まぁ、それが直前なのかもっと先なのかは誰もわからない。それは寿命予測ににている。何時だかわらない。でも、絶対に寿命はつきる。そういうことだ。

 気になるのは一度ダメ人間役になってしまったら、どうするか。いろいろ考えたけど、論理では説得できないし、証拠は重要視されないし、力づくだと暴力と見なされ酷い報復をうけることになる。つまり、未知はない。風向きが変わるまで我慢するよりない。できることなら、その社会から早めに逃げ出すこと。そうでないと、ダメ人間は精神的に破綻させられることになる。高田純次でもない限り、ダメになってしまう。

 ダメ人間には2種類ある。明るいダメ人間。そして、くらいダメ人間。明るい代表例は高田純次だろう。存在そのものがコミカルで、いくらダメでも嫌われない。くらいダメ人間は困難に立ち向かう必要がでてくる。社会に抹殺されるが、自滅するかになる。そして、そのどちらになっても、「良かった」と見なされてしまう。だから、逃げたほうがよい。あるいは、変にきっちしりしようとせず高田純次を目指すか。

 なんとなく、そんなことを思った。

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紅茶を飲んでぼんやりしていると
心に浮かぶ風景

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パルテノン
 
神々しい。
30分くらい見ていたら、
目に焼き付いた。
同時に、目も焼き付いた(太陽が厳しい)
 
人間の関係などつまらないものだ。
こういう建築は時間を超える。
そのとき、職人同士のいざこざなど
さっぱり痕跡が残らない。