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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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見ていることとやることの深遠な溝

わかることと出来ることは次元が違い、交差しない

 料理を作ろうと思って、作業を手順を想像する。材料を買って、調理の順番を想像して、実際そうしている自分を想像する。最後まで想像できたから実際に作業することもできると考える。包丁の入れ方や調味料を入れるタイミングとその時の食材の様子などまで想像できれば、想像することと実際にやることの差は大きくないかもしれない。つまり、わかることと出来ることとに大きな差はないかもしれない。

 しかし、食べることまで含まれるとこの二つは決して交差しない現象なのだとわかる。続きを考えると、出来た料理を更に盛り、テーブルに運び食事をする。その時、たとえばパスタを口に入れ、その香りと味の成分が舌を経由して脳に伝わり、そこである味を感じる、うんぬん。想像する側は、どこまで言っても行程や物理現象を言葉で表現していくだけである。一方、実際にやる方は料理を食べるわけで、そこで味を感じちゃう。上手い、まずいは別にして、事実として味わってしまう。想像と実際は決して交わらない、という意味である。

 楽器を弾く時もおなじ。楽器についての知識や弾き方の知識が豊富にあっても、それは音楽を演奏することにはならない。どんなに勉強しても、演奏する側には到達できない。もちろん、作曲とか演奏会企画とか演奏者ではないものには到達できる。そして、それは演奏者でないからといって悪いことではない。どころか、演奏を成立されるためには必要な仕事である。しかし、どこまでいっても演奏者ではない。これを勘違いしてはいけない。

 なぜ、そんな違いにこだわるのかと言えば、それは仕事についておもいあたることがあったから。技術職という言葉がある。それって、技術を直接相手にしていないと成立しない言葉である。技術が成立するようにサポートする仕事は必要な仕事であっても、それは技術職ではない。どんなに扱う技術の知識を増やしたところで、手を動かさないならば技術職ではない。そういうことだ。

 通常、技術職はブルーカラーとしてホワイトカラーより一段低い扱いをされる。とくに、西洋諸国ではそうだ。誰でも出来る、ということか給料も絶望的に低い。一方で、なぜだかしらないが、日本では手を動かす人を低くみる習慣はない。さげすんでいるのは政治家と役人くらいなもので、ごく普通に生活している市民は職人に対して一定の尊敬の念をもっている。この違いはどこからきたのだろうか。

 頭の中で考えるだけだったら、なんだってできる。訓練する必要がないから、なんにだってなれる。しかし、実際そんなことはない。考えているだけだと何にもならない。妄想に過ぎないということがバレてしまう。実際にやってみれば、出来ないことが証明できる。だから、変な想像によって実際の生活が乱れてしまうことはない。その意味で、実際にやることは大切なのだ。

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紅茶を飲んでぼんやりしていると
心に浮かぶ風景

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墓碑のレリーフ
 
ギリシャの博物館にあった。
大英博物館でも似たようなものを見た。
墓碑なのに味わい深い。
静かにじっくりと見る。
 
母親の墓碑なのか、子供の墓碑なのか。
こういう余裕がある世界。
古代ギリシャの方が、
今より生きやすかったような気がする。