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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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不愉快な解釈を採用する

物語の中の自分

ひとつの出来事の解釈可能性のうちから、自分にとってもっとも不愉快な解釈を組織的に採用すること。 LinkIcon内田樹の研究室 

 なるほど。そう、解釈するのか。あるいは、そう解釈するように行動するといろんなことが見えてくるような気がする。しかし、本当だろうか。
 
 被害者になると一種の万能性をもてる。他人が何を言おうと、おれがそう解釈したんだから、それが事実だ。それが真実だ。そして、それを決められるのはオレで、それ以外は決められない。
 
 ある意味正しい。しかし、これがまかり通ると世の中面倒になる。なぜならば、敗者側にたつと何にもできないのではなく、何でもできるようになるとも言えるからである。だから、ある意味おかしい。
 
 ある現象が起きる。それをなるべく悪い方に解釈する。この心理、実は理解できる。なぜなら、ぼくもそういうところがある。自分にとって有利なこと、幸せなことはあまり起きないと思っている。だから、自分にとって悪いことなのだ、ととる。テストの成績は悪いだろうな、とか、自分の作品の出来は最悪の評価をうけるだろうな、という最悪の予測をする。それが、自分にとってなるべく悪い方に解釈するということだ。しかし心の底では、あまり悪くないだろうな、むしろ良い結果になるだろうと思っている自分もいる。そういう気持ちである。
 
 いやしかし、それだったら「最悪」でも「最高」でもなく、まぁそうだろうなという「たぶんそうなるであろう、つまらない結果」を想定するべきではないだろうか。世の中は、すっごくラッキーなことも、ひどい最悪なことも起きない。まぁ、そうだろうな、という普通のことがおきる。そして、それはあまり面白くない。物語としてはつまらないことしか起きない。その場合、「これは無意味だ」と解釈することも可能なはずだ。なぜ、そう考えないのだろうか。
 
 これは、自分の生活にドラマを物語を求めているからだろう。上記のブログを見ていて、そういう視点があることに気がついた。そうか、自分がヒーローになるようなことは起きないのならば、自分が虐げられた不運の人というストーリーに現状を解釈してしまうのだろう。なるほど、その説明は自分の理解をすっきりさせてくれる。
 
 物事を悪く考える。これは、前頭葉にある損傷などが原因で発生する精神的な病気なのかと思っていた。あるいは、実際に発生したときのショックを和らげるための心理的な防衛方法なのだろうと理解していた。小学校のテスト結果を話し合う頃から身についてた方法だと。でも、違うな。もちろん、そう理解した方がいいものもいくぶんあるかもしれないけれど。
 
 こう考えると、もっとも健全な解釈は「無意味」というものではないだろうか。あることが起きる。そして、その解釈を自然と探る。いつもだったら悪いように取るのだが、それをやめる。そして、たぶん「無意味」だと意識的に考え、解釈を放棄する。大抵のことは、どうでもいいようなことである。とうことは、解釈なってしなくたっていいはずで、それなら無視したって問題はない。だから、解釈を放棄することは、それなりに健全なことなのではないか。

 そんなことをぶらぶらと考えてしまう。
 

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紅茶を飲んでぼんやりしていると
心に浮かぶ風景

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エレクテイオン
 
見たかったんだ、これ。
カリアティッドを。
女神を柱にするという発想。
紀元前の建物。
 
かなわない。
そう、しみじみ思う。
日本人が、なんて意味ではなく、
ぼくがギリシャの時代に生まれていても、
なんもできんかっただろうな、と。