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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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内田樹のブログから学ぶ、被害者心理という毒

今の自分が必要とする内容をブログで見つけた

 世の中不思議なことがある。今ぼくが知りたいと思っていた内容をたまたま目にしたブログで読み取ったのだ。ブログは別の問題について議論しているのだが、自分が気になっているキーワードは無意識がはっきりと見つけてくるから不思議だ。今はこのことに目がいつく。
 

統合失調症の特徴はその「定型性」にある。
「妄想」という漢語の印象から、私たちはそれを「想念が支離滅裂に乱れる」状態だと思いがちであるが、実はそうではなくて、「妄想」が病的であるのは、「あまりに型にはまっている」からである。
健全な想念は適度に揺らいで、あちこちにふらふらするが、病的な想念は一点に固着して動かない。その可動域の狭さが妄想の特徴なのである。
病とはある状態に「居着く」ことである。
私が言っているわけではない。柳生宗矩がそう言っているのである(澤庵禅師も言っている)。
「こだわる」というのは文字通り「居着く」ことである。
「プライドを持つ」というのも、「理想我」に居着くことである。
「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。

LinkIcon内田樹の研究室 

 こう説明されると、妄想の本質がわかってくる。あるシナリオが頭の中でずっと繰り返される。そして、そのシナリオは自分が敗者になるという不愉快なものを味わうような結果である。何度も何度も、同じ結末を「味わう」ために想像する。なんども考えていると、それは「現実化」する。現実化とは、現実感をもった考えになる。なんど考えても頭の中だけでの出来事なのだが、それが現実と地続きに思える、というか感じるようになる。こうなると、妄想はすでに現実になり、現実のことを考えることに遠慮は要らなくなる。
 
 これが居着く、というものである。そもそものきっかけは自分が弱いとみなすこと。それが次第に自分の不幸を悔しさに変え、誰かを恨むという行為に発展する。この発展形態は多くの人で「同じ」である。人によって特殊な病気のように思われてるかもしれないが、多くの人がそう考える。だから、それは脳の機能の一つのようなもので、だからこそ病気であり、そして治療というものが行われる。

 頭がおかしくなるといっても、劇的におかしくなることは稀だろう。くだんの友人について言えば、かれは全くまともなのだ。ただし、あることについてえらく腹を立てているらしく、話がその件にちかづくと電話で話していても口調が粗くなる。世の中に怒りっぽい人や恨みを根にもつ人は星の数ほどいるが、その人たちは病気ではない。その線はあいまいで、だれかが決められるようなものではないのだろう。

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紅茶を飲んでぼんやりしていると
心に浮かぶ風景

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Aha広告
 
イギリスの広告にはずいぶんと粋なものがある。
プラットフォームにならんでいる広告。
himってだれ?と思っていると、
Aha!!

日本人のぼくよりも、
ヨーロッパの人は敏感に反応するのだろう。
しかし、ベタなイメージだ。