Scienza / Foglio

vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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本をたくさん読む必要があるのだろうか?

1000冊読んだら、それ以上の変化はない?

 何年か前から始めている1日1冊運動もそろそろ方針変変更の時期に来ている。1日1冊とっても、結果的には達成できてないからすでにダメなんだけど、2005年の夏からはじめて3年近く経っており、累積は670冊くらい。もちろんそれ以前、といっても高校卒まで本なぞ読んでなかったので大した冊数ではないものを足すと、おそらくだが生涯冊数は800−900冊くらいはあるのだろうと思っている。子供時代から本好きの人には全くかなわないだろうけど、日本人の平均からは相当上であろう。

 こういう数値が見える行動をずっと続けていると、数値自体がすぐに目的化してしまう。そう言えば、なぜ本の冊数を稼ごうとおもったのだろうか? それは、量は質からしか転化しないと信じているから。冊数を量とみている。では、質とは何だろうか?
 改めて考えると、はっきりしない。はっきりしているのは「頭良くなりたいなぁ」という動機だけだ。ずる賢いというのではなくて、スマートさを身に付けたかった。容姿などはさっぱりだし、芸術センスも磨けなかった以上、残るは頭しかない。資本も対して必要ない。時間があればいいだけだ。そういう理由で始めた運動だった。実に抽象的な動機で、具体的な行動を取っていたものだ。
 過去にもたくさん偉大な人がいたが、そういう人は(当然だが)現代とちがって本をたくさん読めるような環境になかったはずである。100年前でもいい。大分違う。それでも偉大な人はいた。現代にだって、本を1000冊というスケールで読んだからこそ偉大な仕事ができたという人は多くないだろう。おそらくだが、そもそも小説好きの作家と書評家、評論家という人たちだけであろう。
 だとすると、ぼくは一体何をやってるのだろうか? 1000冊は要らないであろう? 知識の量としては決して多くないが、ぼくは辞典になるわけではないし、今はgoogleがあるのだ。結論としては、もう量を目指す必要はないであろう。

 これまで集中的に読んできたけど、ぼくは何を得たのだろう。少しは本を「読める」ようになったと思いたい。小林秀雄だったと思うけれど、普通の人は本をちゃんと読むようなことはしない、なめているようなものだと言っていた。文系で読書方法というような教育があるのかどうかはわからないが、読める読めないについては先生とのやり取りのようなもので鍛えらるような気がする。それは幻影かな。須賀敦子のエッセイのなかで学生にたいして「まだ、読めていない」と叱ったとか何とかいうような場面を読んだ記憶がある。そういう先生について「本の読み方」を学びたかった。ま、それは贅沢な悩みであろう。

 勉強とは何か。本をたくさん読んで何になったのかという疑問は、勉強するとはなにかにつながる。本を読むことは勉強することではない。ショーメンペンハウエルとかなんとかいう哲学者が言っていたと何かでよんだが、読むことは人の考えをたどることであって、それは自分で何かを考えることとは違うのだな。まぁ、考えることも技術ならば、人のマネをして学ぶことに何の問題モないと思うからぼくは読むことはそれはそれでいいと思う。
 幸せな4年であった、ということになる。これからも本は読むけど、冊数をあまり気にしないで行きたいと思う。社会で大変な思いをしている人は星の数ほどいる。本当に、NHK特集などの番組をみているとそう思う。もちろん、だからなんだ、ということになるのだが、まぁ、自分のポジションに感謝しなければならないのは確か。

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紅茶を飲んでぼんやりしていると
心に浮かぶ風景

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お気に入りの書店の書棚

本屋に行きたいなぁと想う。
そういうときは、こんなイメージが頭にある。
お気に入りの書店の書棚。
天井画広くて、暖色系の照明。
喫茶から食器の音が聞こえてくる。

ゆっくりと時間が流れている。
お金がかからなくとも、
友達がいなくとも、
天候が悪くとも、
ここはいつも同じだな。

週末になったら行こうかな。