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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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遊ぶ機械

コンピューターは「考えること」を遊びにする

 コンピュータは色々な計算を行う。通信を行う。メールやWEBは誰でも使えるものだし、ワードやエクセルはあると便利そうだし、データベースは都市生活をいろんな面から支えている。

 だからコンピュータは「便利な道具だ」という位置づけになっているかもしれない。とくに、何に使うのかよくわからないパソコンだった20年前とは違い、今はツールとして使いこなすことが必要になっている。生存に有利な道具になったわけだ。

 とすれば、使えなければなならいという具合に一種の脅迫を感じる。物事はおしなべてそうだが、脅迫されたら遊びにはならない。それはつまらないもになる。それがなんであろうと。


 小学校の教科にTVゲームを入れると、いやになる子供は必ず出現する。体育が大好きということどもがいるように多くの子供はTVゲームが大好きだろう。だから、TVゲームを授業科目に入れたら多くの子供が喜ぶはずだ。そう思う人はおそらく自分でTVゲームをやったことがない人なのだろう。

 数学、国語、体育。子供のうちはこの科目は遊びである。社会で「生きていくため」にはとくに必要がないから。それらの教科にだって、ファンはいる。好きな子供がいる。大好きで、家に帰っても誰に言われるでもなく、その教科を勉強してしまう。なぜか。

 その理由は2つ考えられる。一つは、なぜだから理由がわからないけど好きな場合。もうひとつは、その教科が他の子供よりできる場合。前者は個性なのでどうしようもないが、後者はいろいろ考えることができる。

 数学が人よりできる。とすれば、ちょっと勉強しようとなる。気持ちがいいから。逆に、数学が人より出来ない。ならば、あまり数学に関わりたくなくなる。勉強したところで皆と同じになれるだけだから、やりがいがない。やっても楽しくない。だから、やらない。

 ならば、TVゲームもそうなるはずだ。TVゲームで遊ぶときも他人との優劣ができる。誰よりも上手、誰よりも下手。そういう評価は子供うちには明らかなのだ。子供はサッカーが好きだが、それでも優劣がはっきりしていくると、面倒に思う人がでてくる。それと同じだ。

 つまり、そのもの自体に興味をもってやれる段階と周りの人との優劣を意識しながらやる段階とがあり、後者の段階になれば自分が上手にできないものは避けるようになるのだ。そして、それが理由でTVゲームから離れる子供が出てくるだろう。

 それでも、TVゲームをやって点数を取らなければならないのは厄介なことだ。そして、たとえば「マンガ」にも適用できる。大抵のものはそういう性質を持っている。


 コンピューターは社会に生きていう上で便利かもしれないけど、そういう動機でコンピュータに触ったら面白くないだろう。わけわからないけど「便利だ」「効率的だ」という指標を追いかけ「最新知識」「必須スキル」にヘキヘキしている人も結構いるだろう。なんだか、かわいそうなことだ。20年間はそんなことなかったのに。

 ぼくが自宅でコンピュータを使うとき、それは遊びに限っている。こうしてブログをつけているが、これは純粋な、そして少しは知的な遊びだと思っている。やってもやらなくてもいいことをやるとき、それを遊びとして受け入れることだろう。やってもやらなくてもいいならやってみる、というのは遊びを増やすことだろう。

 血相変えてやらないでもいいじゃやないか、コンピュータくらい。べつに死にゃしねーよ、という分けである。

 取り立てて使う必要がないコンピューター言語を勉強するのは、イタリア語を勉強するような遊びである。使うチャンスは自分でつくらないといけないが、それは遊びが遊びを増やすようなもので、ワクワク感に彩られている。