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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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HOME > 2008 > 05 May

思索という遊びを上手になりたい

森本哲郎への憧れ

 遊びといったら失礼かもしれない。文章も上手でなければ、哲学についても知らず、旅にもほとんどでたことがないぼくが森本哲郎のような生き方に憧れても、達成の見込みはない。まぁでも、基本的に他人になることは誰だってできないのだから、「ああなりたいなぁ」という目標として何を選ぼうがその人の勝手であろう。

 GW期間に何冊か本を読んだけど、しんみりとした思いで、それでいて想像力を働かせて読む本としては、森本哲郎のエッセイが一番自分にあっている。砂漠への旅に憧れている、世界史に明るい、地中海圏への旅をたくさんしている、本、とくに古書なんかを時間的に読めないとわかっているのに買ってしまう、思索することがそもそも好きである、そういう行動にぼくは憧れを持っているからだろう。

 ブログを書く人の理由はさまざまだろうけど、ぼくは森本哲郎のようなエッセイを自在に書けるようになりたくて、そのための練習だと思って書いている。もっとも、ぼくは文筆業でもなければ、文系教育を受けたわけでもなく、本を読むようになったのがここ10年というバックグラウンド。だから、エッセイを書けるようになりたいという思いがあっても、多分それは達成できないだろう。ぼくの年齢だともはや、出来そうだからやるという合理的な行動とは関係なく、やりたいからやるだけである。書けるようになってもそれがなにかに役に立つことを期待してやるというものではないのだ。つまり、遊びなのだ。

 哲学者でも作家でもない普通の人が思索をする場合、それは「何のため」なんだろうか。考えることに時間をかけて結果的に得た「答え」はいったいどうしたらいいのか? 冷静に考えれば、それは使い道がない。ちょっと想像してみるばわかることだが、思索の結果を人に伝えたり、ましてや人の行動に影響を与えようとするのは、単なるおせっかいであろう。思索の結果はみな平等ではない。普通の人の思索の結果は、おそらく普通のものであって、普通だからゆえに「価値がある」というものにはならない。それは素人画家の絵のようなもので、作品自体に一般性のある価値はないだろう。アウトプットとして出してみることは必要だろうけど、その結果にこだわってはいけない。遊び遊び、という余裕がないと、やらなくていいことで人に不幸をまき散らすことはない。