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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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HOME > 2008 > 01 May

教えたいという衝動には注意しないといけない

その衝動の根拠を考える


 学生さんを見ているとじれったく思うことがある。ああすればいいのにな、と感じるので教えたい衝動にかられることになる。そこで、ああしたらどうだろうか、こうしたらどうだろうかとアドバイスという形でやんわりと教えることがある。それは、教育の一つだから奨励されるべき行為であって、そもそも教育職なのだが当たり前だろうと自分で考えることになる。
 しかし、そのアドバイスを受けるほうは大抵迷惑するはずである。アドバイスならぬおせっかいになる。そのような関係で何かを教えたいと思うのは間違いであろう。両者ともに疲弊する可能性があり、できるならば教えたい衝動は抑えたほうがよい。よくよく考えないで「教えることは良いことだ」という信念のもと行動すると、それは不幸を巻散らかすことになってしまう。できれば、ぐっと堪えて「どうしてそんな衝動を持つのだろうか」と反省したほうがよい。


 教えたいと思うくらいだから、その内容を自分はわかっていると考えている。もし、疑いを持っているならそもそも教えたいと考えることはないはずだ。だから、自分で自信をもっていることほど教えたいと思うことにになる。
 しかし、そのまえに確認しなければならない。自分が教えたいと思っている内容を本当に自分は「正しく」理解しているのだろうか。自分が自信を持っているものほど自分流の理解ではないのか。いわゆる教科書的な理解は他の人が整理した形なので、必ずしも自分にしっくりくる形とは限らない。自分にしっくりするように理解することができたものほど理解の仕方は自然であろうし、完全に理解した感を持つことが出来るはずだ。だから、わざわざ人に教えたくなるのだ。言わば、自分の作品になっている。
 ある人の独自の理解を反省なしに他人に教えて良いものだろうか。相手が考える人ならば問題ない。考えるひとは相手なりに自分の解釈を「相手なりに理解しよう」と考えるはずで、結果的に相手がおかしいと思ったことは理解を拒絶するから、こちらが独善的な理解をしたことを教えてもその被害は相手に波及しない。しかし、鵜呑みにするような人はなにも考えないで受け取ろうとするので、誤解を相手に伝えることになり、それがもとで相手に不利益を与えることになる可能性がある。これは、相手にとって迷惑な話である。だから、伝えるには相手を見る必要がある。


 そもそも教師でもない人が、しかも請われてもいないのに「教える」のはとても危険なことなのではないか。知識の伝搬は必要であるし、社会を形成していくには大人が子供に知識を伝える必要はある。それは当然である。しかし、生きていくのに必ずしも必要がないものは、その言葉通り「必須ではない」のであって、そういうものは無くてもよい。だから、人に教える必然はそもそもない。請われて教える関係は両者同意の上であるが、教えたいという衝動は片側だけの「欲求」である。要するに押し売りなのだ。そして、押し売りが売るものに良いものはない。良いものなら押し売りしなくても売れるからだ。
 請われもしないアドバイスは押し売りである。自分が教えたいという衝動にかられた注意しなければならない。それは、教えられる相手に不幸を売ろうとしている。そして、売りつけるほうも結果的に軽蔑される。いいことはなにもない。