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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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習い事からの誘惑

ある意味、後悔なんだろうが、それでも勉強したい

 どれだけの人が同意しているのかわからないが、今でも無性に勉強がしたい。教科書を開いて、という勉強も含まれるがいわゆるおけいこ事に魅力を感じるのだ。職業とつながらない習い事は、効率という面から考えるとムダ以外のなにものでもない。生徒が遊び気分なら、先生もバイト気分。大局的な視野からみれば、双方にとって幸せな結果にならないものである。そうはわかっていても、それでも勉強したくなる不思議ものである。


 小さい頃ピアノに通わされた。あれは何だったのだろうと思うくらい、嫌だった。いや、小学校のときに「ピアノを習っている」といったら周りのやつらから「おんなじゃん」と言われてからかわれた。それ以来、なんだかやる気が失せてきて、数年でやめてしまった。全く音楽とは関係がないわけではないが、あのままそこそこ弾けるくらいにまで成長していれば、もっと違った人生を歩んでいたのだろう。ただし、両親がそもそもクラシック音楽なんか全く聴かない庶民だから、結局なが続きしなかっただろうという気もする。ピアノを続けても続けていなくても、今と同じだったのだろうという気もする。


 ぼくは下町の庶民暮らしだった。それでも、そんな機会があったから、小さい頃に習い事に通わせてもらった人は多いだろう。そして、同じように途中でやめてしまった人も多いだろう。そんな気がする。そして、習い事なんて結局役に立たない、という結論を持っている人も多いかもしれない。


 しかし、中年になると再び習い事をしてみたくなる人は多いのではないか、と根拠はないが推測する。自分がそうだから、ということなのだけど。自分にその時間がない場合、子供に「自分がやってみたいもの」を習わせることになる。あるいは、自分がならいたいなぁと思っていることを子供から言い出されると許可してしまう。そういう状況だろう。


 なぜ、そう思うのか。その理由は、自分の人生の出口が見えてきたからだと思う。長いトンネルの先にほんのり明かりが見えてきたような状態。そうか、うかうかしているとおわっちゃう。子供の頃の気分に戻ってがんばりたい。そう思うようになるのだろう。過去に戻ってもう一度勉強したい。あるいは、いつでも勉強できるとおもっていたらそうではないらしいと薄々気付き始め、それで始めるということかもしれない。いずれにせよ、人生の出口に対する心理的な抵抗なのだろう。


 新しく楽器などをならうのも悪くないと思うが、個人的な経験からいえる忠告がある。それは、1,2年でそこそこできるようになると思わないことだ。1,2年では無理だ。5,6年かかる。どんなものでも、出来るようになるのは脳の回路であって、それができるようになるには数年必要になるはずだ。


 このとき、大抵は数年にたえることが出来ない。今から5,6年やって、その年になってももう楽しめない気がする。そう思うのである。だから、やめてしまう。いかなるものでもそういう仕組みをもっている。これは、避けられない。簡単にできることなど、何一つない。おそらく、中年以後の習い事を楽しくやるための最大の問題は、永遠にできるようにはならないとしても、その習い事をやるかどうかになる。


 老人に未来はない。当たり前である。同じように、中年にも未来はない。あとは、あまりの人生なのだ。いまから努力しても、結果的に成功することはない。単に、勉強すること自体が楽しいかどうかにかかっている。変な夢を見ている人なら、やめた方が良い。自分の人生は現在にあり、未来の夢にあるのではない。中年って、それをまず受け止める必要があるのだ。


 これからも習い事からの誘惑がたくさんある。どれをとり、どれをやめるのか。生きていくことで精いっぱいというわけではない、人類史上稀に見る幸せな中年だったら、正面から考えるべき問題であろうと思う。

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紅茶を飲んでぼんやりしていると
心に浮かぶ風景

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サンタ・クローチェ教会前の広場

はじめてイタリアへ行ったとき。
フィレンツェの待ちを歩いていて、
ビルの壁面に絵があるの見た。

驚いた。絵が古そう。
そして、それが今もある。
想像できなかったのだ。
そんな世界があることを。

綺麗なものではないが、
イタリアってスゴイかもしれない。
この広場に立ったとき、
ぼくは何かを完璧に見落としていると知った。
海外旅行には大いに意味がある。
そう、思った瞬間である。