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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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WEBづくりの効用の一つは記憶の強化

思い出すことは記憶の強化につながる


 せっかくだから旅行に行った時のメモをWEBに残しておこうとページを立ち上げたはいいが、完成までには至らないものがいくつかある。どうせ読む人がいないからほったらかしになっているが、そもそも人に見てもらうために立ち上げたページではないのだから、それは理由にならないはずだ。そう、思って時間があるときにちょこちょこページを作り替えている。これが意外に記憶力の強化につながっている。

 いまはこのページに手を入れている。半年前のことなのだが、写真を見返して情報を言葉にしていると、昨日の出来事のような気分になる。思い出すことは必ずしも記憶したことを思い出しているのではない。記憶を適当に作っていると言われている。とくに、ページにするときに前後関係を忘れてしまったところなどは、話がつながるように取り繕ってしまうところもある。単にウソをつくのではなく、多分そうだったよなぁというものを確認なしに「そうだ」としてしまうことをさす。時間が経つと、そういう経緯で文章にしたことを忘れ、何がホントだったのか忘れてしまうので、それが「本当のこと」になってしまう。そういうこと、いろんな状況で起きているだろう。

 ぼくはこれをフィクションだと思っている。ウソではない。もう、忘れてしまったことや記憶があいまいなことを憶えているかのように文章にするのだから、結果的にフィクションになってしまう。そして、これはこれでいいと思う。これは、WEBの一つの効用なのではないかと思う。記憶が鮮明なうちにやれば、フィクションにならなくてすむのだから、方法が悪いのではない。

 ごく普通の人が文章を書くとき、必ずしもドキュメンタリーである必要ないだろう。フィクションだっていいじゃないか。大切なのは、個別の情報が正しいことであって、その個別の情報をどう構成し全体にするかだ。チェックポイントになる事実には道義的責任があるかもしれないが、個人の体験については余りうるさく言う必要ないだろう。旅の情報で言えば、ホテルやお店や季節、交通情報については正確に、何かに出会ったいきさつなどはあいまいな記憶を適当につなげた夢みたいなものであってもいいだろう。そう、考えるようになった。

 ぼんやりとかんがえる。ぼくは旅行の記録のWWWページをもとに文章を練習しているのだが、そもそも確固とした体験なしに体験を語る訓練をすれば、それは小説の練習になるのだろうか。高校生くらいでは、あまり旅行も行けないし、スゴイ体験をする機会も少ないだろう。しかし、小説家の人は大抵子供の時期から何らかの小説を書いているはずで、それは想像がもとになっているだろう。事実無根からは話を紡ぐ訓練のはずだ。ならば、この旅行記の訓練をすることで、小説へ近づけるのだろうか? ちょっと考えた。それはないだろうなと思った。昔の人はそんなに遠くへ行かなかったが、それでも明治大正人が近代の日本文学を作ってきたのだから。

森本哲郎のフィクションが好きだから、ぼくもやってみようかと


 森本哲郎の作品がぼくは好きだ。行きたい場所が似通っていること、旅の途中で色々思索すること。好きだなぁと思うことは、自分でもやってみたくなる。決してそれが動機でもないのだが、なかなか年代的に森本哲郎の新刊がでないだろうから、それなら自分で書くよりないなと思っているのだ。もっとも、ぼくは哲学を学んだわけでもないし、外国で長く暮らした経験はないし、そもそもただの観光客にだってなかなかなれていないから。冷静に考えればそうなんだけど、誰の迷惑になるわけでもないのだから、楽しんでやってみようと思う。

 何から始めるか。それは、実際旅行から初めて、少しずつ想像を入れ込んでいくことだろう。絵日記みたいなものだし、そんなに長くないものだし。そもそも失敗したら、削除すればいい。単にそれだけだ。この発想に、やらないほうがいいことは何もない。やってみるほうがいいだろう。だから、やってみるかな。