Scienza / Foglio

vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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旅の記憶は個人専用

ブログに記す旅の記録はとても難しいジャンルなんだ

 旅行は楽しいことも大変なことも嫌なこともあるから、行っている最中は実際問題辛いことが多い。だけど、帰ってきてみれば「すっげー、楽しかった」と思うし、友達に感想を聞かれたときにそう答える。その言葉を発したときに、準備段階から旅が終わった後に精算される支払いを含めて全てが良かったことになる。まったく、一方的な記憶捏造というか思いで捏造が行われるのだけど、それでも本人にとっては失敗や不運を含めて振り返れば楽しい思いだし勉強になったということになる。これは、旅の評価の一方的な改ざんだろうなと思う。

 他人の旅の良い思い出だけを鵜呑みにして実際出かけると、だから大抵失敗することになる。「そんなにいいか、ここ?」という感想になる。いや、ダメのはずだ。その時点での評価は「失敗したー」なんだけど、その失敗も帰ってからは「良かった」ことになる。「いいところを教えてくれて、ありがとう」ということになる。思い出に変換されれると、失敗もまた味になる。かくして、誰もが「楽しい」とは思わなかった場所でも、結果的に残った記録には「だれもが良かったという感想を持つ場所」になってしまうわけである。地球の歩き方は信用できないと誰もが薄々しっているが、かといって持っていないと不安なので買ってしまい、現地で「あれー、この情報おかしいぞ」となる。そして、その思い出も結果的にハッピーな味付けとなり、「まぁ、結果的には役立ったよ」という評価を受けて、毎年更新される人気シリーズになっているわけである。かくいうぼくも、行き先が海外ならばかならず買う。

 昔は自宅に遊びにきた人に見せるアルバムが旅の思い出の形としての定番だったが、今はブログというものがあり皆さん旅の記録をアップロードしている。写真満載で、良かった悪かったの評価がたくさんのっている。ページ数の制約もないし、原稿料も無料の世界だから量は爆発する。その作者はプロの原稿書きではないので、一つ一つは稚拙なものであるが、量は質に転化する。一人のストーリーにこだわらず、Web検索結果をあちこちから積まんで必要なものをピックアップすれば、自分には必要な(他人が必要かどうはわからないけど)ガイドができる。それらをプリントアウトして必要もんだけ束ねてホッチキス留めすれば、多分一番実用的なガイドブックの出来上がりであろう。つまり、ブログは素材の集合としての利用の仕方があるだろうということだ。人間はそんなに変わっていないのだから、自慢話のスライドを見せられる古き良き時代のよくあるエピソードのようなことが起きるはずで、それが個人がアップロードしている旅ブログであろう。

 かくいうぼくもご多分に漏れず、旅の記録のページを立ち上げている。その理由ははっきりしている。個人でページを作るときに困るのは何を書こうかというコンテンツであり、非日常性が一番でているのが「海外旅行」だから当然それをコンテンツとして利用しようとする。なによりも、旅の写真をいじりながら何やら紙芝居を作っていると、旅の思い出を素材に再び旅の情景を思い出すことが出来るのだ。要するに、楽しいのだ。旅のアルバムを作り、エピソードを書きつけることで、楽しいだけの旅が再構成される。これは、旅の2度ダシをやっているようなものなのだが、人生を豊かにする偉大な方法の一つであることは間違いない。と同時に、他人には全く面白いものではないだろうこともわかってしまう。情報取得手段としてページをたぐる人には多少意味があるが、そうでもない人にはほぼ「どうでもいい」話である。

面白い旅番組の条件は実に簡単なことではないか

 旅の記録をつづったブログを面白く書くには、いや、他人から見てもらえるようなものにするのは不可能なくらい難しいのではないか。それは、動機を考えれば想像できる。なぜ、そのブログを読もうと思うだろうか? 情報を集めたいから? 写真が綺麗だから? 意外な出来事を知りたいから? 普通の人は普通の旅行しかしないものだから、「意外なこと」を知るのはむずかしいだろう。もちろん、あらゆる現実の出来事は思った通りに行かないし、勘違いや思い込みの方が幅を利かしているはずだから、その意味では意外な出来事は多いのかもしれないけど、それは旅をした本人にしかリアルに体験できるほどの理解は無理だろう。

 これまで人に「ぼくのページを見てね」なんて言ったはない。におわせたことすらない。断じてない。たから、友人に「このページみてね」なんて言われてちょっと新鮮な気分がしたし、それと同時に「あまり見たいとはおもわんなぁ」と感じた。それで自分のムシの良さに気がついてしまった。

 このサイトのログをたまに確認する。そういわれればscienza/travelは全くアクセスがないことは知っていたが、その理由までは深く考えなかった。なるほど、そもそも誰も見ていないのか。その理由も明確になった。考えてみれば、全く当たり前だ。説明されれば理解できることだけど、自分でそういう失敗をやらかしてみるとブログでできることと意味があることとの違いが親身にわかってしまう。なんでも自分を実験台にしてやってみることだ。

 これまでいろいろな旅行記を読んだ。面白いものもつまらないものもあった。ダントツで面白いのは森本哲郎の本だ。行く場所が観光地でないことが多いことは確かだが、珍しさが面白い理由ではない。あの人の本は、旅先でいろいろと思索する、哲学するところがよいのだ。そういう思索という行為にも、その結果にも興味をもてない人は全く面白いと感じないだろう。哲学のかわりに歴史の語りでもよい。これも、興味を持つ人と持たない人とにはっきり別れる。別のタイプの面白さは、以前行ったところがあるところを説明するものだ。情報を得るという面から考えたら、実際行ったところの場所のガイドブックなど面白くないと考えるかもしれないが、それは違う。既に行ったことがある場所のガイド本を読むことは、自分で撮ったアルバム整理と同じ効果があるのだ。その意味で、本を読むのが楽しいのだ。だから、その本が面白いのかどうかはちょっとあやしい。

 同じ方法がテレビの旅番組にも言える。確かに、良くできた旅番組はある。NHKの「世界ふれあい街歩き」は、歩行者ののんびりした視線で町中をうろうろするだけの番組だけど、今までみた旅番組のなかで別格の良さがある。行ったことがない街の紹介を見て面白いと思い、いつか行きたいなぁと思うこともある。しかし、その番組でさえ、何度も行った事がある場所を扱ったときは格別に面白いのだ。あぁ、行った行った。知っている知っているというのだけでも結構面白い。それと同じ指向のテレビがあるとすればTV東京の「出没、アド街ック天国」だろう。あれは、一種の旅番組のような気がする。そこで、自分の知らない街よりも知っている街を紹介されたときのほうが断然面白いと感じると思う。

旅の記録ブログの行く先

 自分が行った事がある場所の旅の記録に他人は興味を持つ可能性がある。これは、多くの人にあてはまるだろう。旅先で初めて気がついたことなどの思索を中心に語るブログも、それなりに意味があるかもしれない。ただし、そのための思索や文章力には高度なものが要求されるから、普通の人には難しいかもしれない。

 そうでなければ、交通手段で困ったこと、実際に利用したレストランやホテルのこと、地球の歩き方の情報でおかしなところ、地図や写真などを中心にした「情報サイト」という意味でのブログはありえるだろう。これは、多少質が悪くったってかまない。見る人はネットワーク全体で検索しているし、自分のサイトの情報を使うとしても「つまみ食い程度」であろうから。これなら普通の人は気軽につくればよいだろう。

 でも、ブログなんだから自分の記憶を生き生きと保つためにつづった旅の感想や写真アルバムでもいいと思う。なんといっても作っている本人が一番楽しいはずだ。それが他人には大抵面白くないし、読んでも貰えないと思うけれど、そいうページは存在した方が良いに決まっている。見るか見ないかは読む人が決めることなんだから。そんなことを気にするよりも、他人に迷惑がかからない愉快な遊びなのだからいろいろ工夫して作ればいい。そして、情報などをちょこっといれておけば検索エンジンからジャンプしてくる人にも少しはヒントを与えるかもしれない。あるいは、その場所で考えたことの結果ではなく考えていく過程を記録すると森本哲郎っぽくなっていいかもしれない。ぼくはそうやってみたいが、哲学の方法を学んだわけではないからうまくできるとは思っていない。それでも、やってみたい。

 結局、現状肯定となった。それでいいのかもしれない。そもそも、あれこれ考えた結果のscienza/travelのはずだ。scienza/travelは現状のままでいこう。ただし、それを他人に勧めるようなことはやめておこう。あくまでも、自分の記憶の再構成と表現能力の訓練のためにつづることがよい。もっとも、家族くらいは見てくれるだろうし、少しは面白がってくれるだろうけどね。最終的には、ある時点でのぼくの思索の一端の記録ということにしておきたい。