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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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HOME > 2008 > 26 Mar

やる気がないとやらないならば、

やる気を育てられるとは思えない

 皿を洗わないと行けない。今日は休暇をとったので夕ご飯はぼくがつくった。とっても、何にも見ないでできるカレーなのだが。カレーに入れるじゃがいもと豚肉とニンジンを買いに出かけた。太陽が高いのに人がたくさん歩いている。休日は人がすくないこの町内なのに、いろんな人が歩いている。この町は相撲部屋と印刷所が多い。配達の車が行き交っている。普通の日に出かけると面白い。ちょっと刺激的な気分がするくらい。それで、夕飯あとの片づけだが、なかなか取り掛かれないでいる。テレビも無いし、夜も更けてきたし、さっさと洗ってベッドで本でも読もうと思っている。だから、なおさら早く洗わなければならない。

 ふと思う。やる気がないとものごとはできない。なにも大それたことを言っていない。皿を洗う、ということすらそうなのだ。やる気になればすぐにできるが、実際問題やる気がないのだからどうしようもない。意思が弱いからできない、意思がつよければできるのだと言う人もいるが、意思の弱い強いが問題なのではない。そもそも、意思とやる気は違うものなのだろうか。同じではないのか。もし意思でなんでもできるなら、意思でやる気を出せばいい。もっといえば、意思でやる気を制御できないが、やる気は意思を制御する。ふつうそうなっていると思う。なぜだから知らねどやる気がわけば意思がなくても事たりる。まったく、不思議じゃないか。そう考えると、人には自由意思なんてないじゃないか。そう思うようになる。自分で制御できないやる気こそが自由意思のON/OFFを行っているような気がするのだ。

 筋肉は鍛えられる。筋肉をつかった技も訓練できる。美的感覚は鍛えられる。語学も物理も勉強できる。これらは、やれば→できる、という単純な因果関係で結ばれている。極たまに、やらなくても→できる、という「因果を破る」天才がいる。あるいは、やっても→できない、という同情すべき人もいる。そういう人もいるにはいるが、圧倒的多数は、やれば→それなりにできる、という因果関係に支配されている。だからこそ、義務教育というものがあるし、どんな社会でも子供には何らかの教育を授けているはずだ。ところが、やる気についてはいかなる教育方法も確立していない気がする。人類の歴史は古いのにだれも発見できていない。なぜだろうか。

 やる気を育てます。そういう謳い文句の塾や予備校はウソをついている。そんな方法は存在しない。もっと正確にいえば、多くの人のやる気を出させるような方法はわかっていない。わかっていないのか、実は存在しえないのか。そんな疑問は決着していないと思う。多くの人の「やる気をそぐ」ことはできるが、やる気を出させる方法はない。ヒットラーの演説は人にやる気を与えたのではない。扇動したのだ。オリンピック選手が歯を食いしばってがんばる姿は人を感動させ、人をやる気にさせるような気がする。しかし、その出来事は時間がたつと色あせ、効果が薄れる。だから4年に一回やっているのだと思う。伊勢神宮の神宮式年遷宮だって技術敬称もさることならがら色あせるて荘厳さが薄れるのを嫌うからかもしれない。とにかう、人のやる気を奮い起こす方法はよくわかっていないのだ。

意思をもって自分の行動を決めている、と思うのは勘違いなんじゃないか

 意思は身体を制御しているのか。当たり前ではないか。そう考える人がほとんどだろう。こうしてパソコンのキーボードを叩いて文字を打ち込んでいるのも意思が行わせているからだ。そう思ってきた。しかし、キーボードを打ち込もうというやる気があって、意思がそれを認めているようなことはないのだろうか。意思は、何時は身体が勝手に動くことをモニターしているが、モニターしていることを「指令している」と勘違いしているのではないのだろうか。なぜなら、意思は常に存在しているわけではない。あれをしよう、これをしよう、と意識すると非常に不効率である。楽器の習いたてのとき、スキーに初めていったとき、自転車を習うときのように、意思が身体を制御することなどどだいできない。意思よりも身体が先に覚えてくれる。そして、なぜだから知らねどできるようになってしまう。そして最後に、意思がやったのだと高らかに宣言しているのではないか。意思は要するに役人のような存在ではないのだろうか。

 自分の行動も「気付く」ということがある。クセが代表例だろう。人に言われるまで気付かなかった。結構身体を動かすようなことを意思なしでやってのけていることになる。意思がなければできない、なんてウソだとそこでわかる。意思が介在できる部分は限られていると思ってきたが、意思が介在できることは実はないのではないか。意思があってもやる気がしなければそれまでだからだ。やる気がないのに身体が動くと思っているときは、やる気が少しは出ているのだろう。もっといえば、やる気は感情と行動とに分ける必要がある。身体が動かないということと、感情がわかないということがあるからだ。やる気がないのに身体が動くのは、感情は楽しい方向になりのに、行動は始まってしまうという状態なのだと思う。そして、感情こそ自分で制御できるようなものではない。ただ、変わることを待つことしかできない。ただし、感情と行動は「切れる」ようにすることだけが意思できるのかもしれない。

 気がつくと貧乏揺すりをしている。気がつくと水の入ったコップに手をかけている。結局、自分の行動を指令しているのは自分ではないのだろうなぁという疑問について何かわかったような気はしない。まぁ、いいか。