Scienza / Foglio

vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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未だに勉強しないとダメってのは、何かが間違ってたのかな

一歩外れるとわからないことだらけ

 不思議なことことだと思うけど、未だにわからないことだらけになって困まってしまうことがある。確かに、学生時代には勉強しなかったことだし、最近注目されてきた「技(考え方、計算方法)」なのだから知らないのは当然なのだが、そういうものに出くわして説明をよんでも「さっぱり」わからん場合は背筋が寒くなる。参ったことだ。

 数学者にでもならないかぎり、工学で出くわす数学というものは学生時代に身に付けたものがベースになる。それはその後も使える。だって、物理は変わらないから。ぼくは高校時代から数学をさぼったが、浪人から大学卒業までそれなりに勉強した。だから、仕事で使う数学程度ならば「あぁ、あんた知ってるよ」といえた。どんな教科書のどの辺に説明があるのかは探せるからあまり心配しない。だからといって、それを完全に理解していなかったり、説明を読んでも理解できなかったりすることは多いのだけど。しかし、最近出くわすのは「だれ、あんた?」というような数学技術であることが多い。学生時代の不勉強がたたったというよりも就職してからの10年間の不勉強が原因なのだと思う。くっそー。

 死ぬまで勉強だ。そういう言葉を耳にしたことがある。職人の世界やアートの世界だけでなく、商売であっても人との付き合いであっても、なんらかを勉強しつづけていく必要があることは理解する。モノを見る姿勢というわけではなく、いろいろ変わっていく世の中の仕組みに付いていく必要があるから、じいさんになっても勉強し続けてくことは仕方ない。しかし、ぼくが言いたいのはそういう質の話ではない。もっと単純な「お勉強」というニュアンスに近いものだ。ぼくが学生時代に存在しなかった「分野」が、最近ではいろいろと必要になってしまい、仕方ないでの教科書を一から読むよりないという状況についてだ。しかも、読んでもさっぱりわからないので、なんとも情けない気分になる。くそぅ、大学生はこういうことを普通に勉強しているのか。まいったなぁ。そういう、情けない感。

学生のときを思い出す

 教科書をすらすらと読めたことがあるか。ぼくはない。最初の一ページくらいはわかる。2ページ目になるとちょっと苦しくなり、式がでてくるとそこでスローダウン。いったん休暇をいれるなどしても10ページ目までいけるかどうか。それが自分の好きな科目であってもそうだ。夢中になって新しいことを勉強する、などというのは幻想ではないだろうか。

 新しいこと、つまり、自分の記憶にないようなことを読むのは辛い。聞くほうがらくだけど、結果的に意味不明になる。それはそうだった、だって初めてなんだから。とすると、勉強することはこの辛さに付き合うことと同じである。

 マラソンランナーも走っているときは辛いそうだ。辛いけど走る。選手ではなく、朝、町中を走っている人は自分で自分に苦しみを与えていることになる。一体何をやっているのだろう、と言われても仕方がない。しかし、それで多くの人が「楽しんでいる」といいう表現を
使われるのだから、勉強することだっておなじではないか。つまり、知らない内容だって淡々と読んでく訓練が必要だし、それが他人からみると楽しんで勉強しているように見えるのかもしれない。だからやはり喜々として勉強するなどというのは幻想なんだろう。

 それなら話がはやい。仕方ないのだ。勉強は最初楽しくはない。内容に慣れてくるとなんとも思わなくなる。そういうものだとすれば、つづけるよりない。面白くないことでも淡々と続けることが必要なのだ。ここで気付く。そんなことできる人はそもそも少ないだろう。だから、勉強できるひとはあるいみ少ないはずだ。少なくともマラソンをやる人なみに少ないはずだ。友人にマラソンをやる人は少ないだろう。ならば、友人で勉強をやる人もすくないはずだ。となると、そんな状態ならば、勉強したもんがちだ。そういう結論になる。

 ここで結論めいたことがいえる。勉強は走ることと同じ。止めるとそこで退化する。勉強はじめるにはとても辛い。ただし、つづけているとその退屈さに慣れてしまう。その後、勉強した内容が記憶に入るので学んだ内容を再度見返すと簡単に思えてくる。それが、楽しさを生む。そういうサイクルのようだ。