Scienza / Foglio

vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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人が意見を発するとき

なんとはなしにコメントを見てみる

 ブログのコメント読む。このブログではなく、ニュースのような一般向けのブログ。そのとき感じる。コメントって2種類しかないのだなと思う。賛成側は反対側。中間側ってのは、そもそもコメントになっていない。中庸な立場の発言は、発言しないことと同じような気がする。なぜなら、コメントをしない圧倒的多数のひとは、どうでもいいんじゃなのという立場だから。

 賛成のコメントを書く人は相当なファンなのだろうか。ブログの内容に対する賛成ではなく、著者への好意の表現だったりする。そうだそうだ、は意味がない。著者をなんとも思っていない、知らない人には???がつづく内容になる。スルーである。

 一方、反対のコメントを書く人には2種類ある。著者に悪意を持っている人と、自分はスゴイと表現したい人である。不思議なくらいである。内容についてはどうでもいいと思っているんじゃないかと思えるものもある。面白い。つまり、何をやっているのかさっぱりわからない状態になっているのだ。ネガティブなコメントは理性でやらんといかんわけだ。

 ある人がブログで何かをコメントするとしよう。例えば、「ブルーレイが生き残るというが、最後はネットからのダウンロードになるだろうからブルーレイすら生き残れない」ということなど。実際、ぼくなどは「なるほどなぁ、でも未来のことはわからないよね」と思う。プラス・マイナスの評価を同時にするようにしている。距離をとるためだ。

 しかし、コンピュータやネットワークのサイトなどで取り上げられるとほぼ100%ネガティブなコメントになる。いろいろ読んで見ると「こいつはバカだ、おれのがよく知っている、(暗に)おれはスゴイ」というものだけである。見事に100%そうである。感動的なくらいである。

 結局、口を開く目的は「自分が偉いのだ」といいたいだけなのだろうかと首を傾げたくなる。プロの物書きはこのあたりをちゃんと抑えている。だから、目くらましで全く別のことをいうか、大抵の人とは反対の意見をいうことで注意を引き、結論はもやもやになり結局賛成・反対の両者から攻撃しようがないものになっていたりする。新聞記事のような性質の文章ならばだれかを攻撃する必要はないのだから、それでよい。意見を主張する文章ならばどちらかによる必要がある。しかし、大抵の場合はポジティブでもネガティブでもない、無関係(ハイ・インピーといいたくなるが)。

 議論をせよという言葉があるとしても、社会を構成する人が考えるというより保身の反応をするのだから、実施には難しいのだろう。どうやったら、普通に応答できるようになるのだろうか。外国の人が必ずしもそれをやっているようには見えない。「議論」は幻想なのかもしれない。