Scienza / Foglio

vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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英語で考えるという言葉は単なる表現ではない

そうとしかいいようがないのだ


 まだロスアンジェルスにいる。目的だった発表は無事終了し、夜にはバンケットに楽な気分で参加できた。バンケットのあとユニバーサル・シティーにあるIMAXシアターで火星ローバーの映画を見せてもらった。200人くらいの団体で貸しきったようだ。参加者は何らかの意味で火星ローバーに関わっているのだから、これがおもしろないわけがない。3月に定年を迎える先生も3月に大学院を卒業する学生さんもそして私も文字通り感動してしまった。ホテルまでの帰り道はローバーの話で盛り上がった。科学の成果還元もエンターテイメントで表現するアメリカの精神には脱帽するばかりである。日本ならば学問といえば「偉い」ものというようで、有り難く(たいして意味もない)成果を授けるという発想なのだから、日本で生活し、たまにアメリカで受益者となるとたまげてしまう。

 そして今、眠る前に気になる本を読んでいる。大西泰斗/ポール・マクベイ『ハートで感じる英語塾〜英語の5原則編〜』である。英語についていろいろ悩んだ経験がないと、この本のすごさを納得してもらえないだろう。学問の還元という話ならば、この本こそ日本人向けの学問の成果というかたちでの還元だろうと思う。うれしいことに、私はまだ生きているし、少なくとも帰るまでの数日は英語を使う機会が何回もあるだろうから、今呼んで知ったことをいきなり試せるわけである。もっと言えば、この本に出会うために今回の出張に出たと言っていいだろう。

 感動と同時に腹立たしさも感じる。もう、20年以上も前の高校生の頃のことだ。英語の授業で古風な先生がいた。今から思えば下手くそな発音だった。そして、今考えるとあほみたいなことを教えていた。例えば不定詞。これを「こと・べき・ため・して・なんて・れば・そして」と訳せと言っていた。早口で憶えさせられた。だから、いまでも、不定詞をみると無意識に「こと・べき・ため・して・なんて・れば・そして」と浮かぶのだが、これが今のぼくのチープな英語力を破滅的にダメにしていた。そして、大西の本はこの呪縛をさっぱりとわすれさせ、実に自然に感じる説明をつけてくれた。高校で憶えたことは全部わすれよう。あれはくそだ。英語を日本語に訳すときに、英単語と日本語との「対応」をとる方法は絶対に成立しないのだ。屈折語と膠着語は変換不能なのだ。両者ともにいったん「感情・納得」のレベルで抽象化してから変換というより再生成する必要があるのだ。

 不定詞は言い足りないことを追加するものだ。I was shocked to hear the news. これはI was shockedでいったん終了するのだ。言いたいことを言った、と指向をとめる。そして、「それではいいたりや」と思う。そして、それを補うために to hear the newsを付け足す。とすれば、toには「こと」などという「変換」は発生しない。そして、「こと」と訳さないでも I was shocked と言ったあと言い足りない感がして、to hear the newsと言って安心する、つまり、一応の情報を伝えたということでほっとする感覚をもてれば英語は伝わるのだ。I'll help you to look for it などもそう。助けてやるよ、といっただけでは「何を?」と聞かれるにきまっているので、to look for itを追加しているのだ。これがわかると、じつはすごいことが感じれることになる。

最後まで考えないでもよい


 聞いている最中でも話すときでも、文の途中までで英語は意味をなしているのだと思う。つまり、I'll help you to look for itならば、I'll help youという段階で意図が伝わる。何を?to look for itと次につながるが、この段階ではI'll help youについては文法解釈など一切わすれて意図だけ残っていれば良い。つまり、後半を解釈するときには前半については忘れてしまっていい。となると、聞くときも話すときも憶えている量が少なくなり、実に楽な気分になる。これまで英語を使うとき、いつも頭のメモリーが足りないのだと思って悲し思いをしていた。頭が悪いから英語ができないのだと。でも、そうではない。日本語よりもメモリーを必要としない。むしろ、日本語よりも簡単な言語なのではないか、と疑うようになった。

 toを「まで」とか「に」とかに変換していたら永久に英語を話すことは出ない。なぜなら、屈折語なのに膠着語に変換しているのだから。屈折語を膠着語に変換するのは無理である。屈折語は屈折語として理解し、意図として膠着語を発生させないとリアルタイムの処理はできない。なんと、この歳になって初めて英語という別の言語に直接触れることができたような気がする。プログラムを書くとき、for (i=0; i<n; i++) を日本語として理解する人はいない。でも、実に明確な意味をもって頭の中で存在している。英語は「単語の配置」でそれをやっているのだ。ならば、単語の配置によって意図が明確になれば、それで理解は終了だと思えば良い。どうして日本語に訳す必要があるのだ。プログラムを日本語で発想してから記述する人はいないだろう。生の状態で頭にある意図をプログラム言語に置換えているはずだ。ならば、同じことを英語でもやればいい。つまり、英語は英語のまま対応すればいいのだ。それは日本人であっても十分に可能だ。頭の善し悪しとは全く関係がないのだ。

 ここでまたあの高校の英語の先生を思い出す。お前はバカだったんだなぁ。何年教師をしていたのかしらないし、いつまでやっていたのかもしらないが、非常に多くの人に「英語ができないように」教えていたのだ。旧帝国陸軍の高官のような存在だったのだ。地獄に落ちろと言ってやりたい。といってももう間に合っていないかもしれないが。そして切に願う。大西のような発想で英語が授業として教えられることを。少なくとも、私は誰かに英語を教える機会があったら、大西のやり方を伝えるつもりだ。だって、何年にもわたる苦痛と仲良く慣れるかも知れなかった人々とのチャンスをくそ英語のせいで潰されたのだ。せめて大西がNHKで紹介されたことはよいことだし、できれば今後もずっと繰り返し方法し続けて欲しい。毎年毎年英語に苦労する人が現れるのだから。既存の英語の教師を駆逐することはできないとしても、大西の説明が多くの人に伝わるような機会を今後も継続して提供して欲しいと切に願う。そのためならば、NHKに支払う受信料についての不満はとりさげてもいいと思っている。

 これと同じような怒りを日本語の「、」打ち方についても感じている。きちんとした説明をしてくれなかった小学校の先生には良い感情を抱けない。いつかそんなことも言葉にしてみたいと思っている。