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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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英語が出来ない理由

当たり前の結論がそこにある


 ロスアンジェルスのユニバーサルスタジオの並びにあるヒルトンホテルでこれを書いている。とまぁ、そういう書き出しのエッセイを見かけることがたまにある。一度やってみたかったので、今こうして書いてみる。ただし自慢が目的ではなく、ここに来てから思いついたことが合ったので書き留めるためである。

 ぼくは英語が不得意である。読みはなんとかできる。下記は苦手だが、相手が理解できるものなら作成可能だ。聞きは、日常生活程度ならば、つまり、お店で物を買ったり人から説明されたりすることならば50%くらいはわかるし、残りは状況から推測できる。さて、しゃべりである。これは、かなり険しい。しゃべろうとするうちに、何を言おうとしていたのか忘れてしまうことが多々ある。言いたい単語が思いつかないで考えているうちに、何を言おうとしていたのか忘れてしまうのだ。そういうことは珍しくないだろう。

 そういう人でも学会で発表する機会がある。権威に満ちた学会ではなく、比較的「ガヤガヤ」やろうという国際会議ならば発表する機会を獲ることができる。研究者としての存在は論文や会議での研究結果の発表で見積もられる都合上、嫌でも無理にでも発表する機会を作らざるを得ない。論文は時間をかけることができるが、発表時間は決まっているので発表時に英作文的に言葉を紡ぐことは出来ない。だから困る。ぼくの場合、これまでは「原稿を暗記し、それを再生する」という方法を取ってきた。流暢に英語がすらすらでないが、内容はそれなりにあるときにはこれしかないと思っている。もっとも、キーワードのみをPowerPointに埋め込んで、それを実ながらしゃべるという日本語での発表と同じことができるのならば苦労しないのだが、いかんせん英語ではできないから、仕方なく暗記している。聞いている人は、意味不明なことはないけど、政府棒読みの国会演説のようなものを聞かされるのだから、たまらんだろうと思う。まったくもって、聴講者には申し訳ないと思っている。

 こうして、発表が近づいたときにつくづく考える。なぜ、ぼくは英語で話すことができないのだろうか。これまで受けてきた授業が悪かったのは確かだ。なぜなら、中学、高校と英語を話せる先生がいなかったからだ。まったく、スゴイ商売もあるものだと思う。では、大学ではどうかといえば、英語は話せるのだろうけど、英語を教えるつもりなど全くない授業しかなかった。確かに、これだけの期間に身に付けたものは「読み」であることは確かで、その成果はあったのだと思うけど、実に効率が悪いものであった。人のせいにするなと言われるかもしれないが、ぼくはこれらの英語の授業ではつねに良い点を取ってきたので、求められた努力はしたのだ。自信をもって言える。中学、高校、大学の授業を好成績で通過しても英語をしゃべるようにならない。そして、そのりっは、英語の教師が英語をしゃべれないということと、英語の読みを教えテストしているということが根拠になる。それなら英語会話教室に通う方法があるだろう。就職してから通い始めた友人は何人かいる。そして、それなりに効果があるようだ。しかし、高額な月謝を支払う気にはならない。泥棒に追い銭のような気がするからだ。英語教育というものを信用できなくなっているのだ。まったく、ひどい話である。

 ところが、長年の疑問がとけた気がしたのだ。今、大西泰斗の本を読んでいる。NHK出版の新刊がでてきたので、出張前に買ってみた。そしていまホテルで呼んでいる。実に勉強になる良い本だと思っている。というか、この人の本にせめて大学生時代に出会えていたら、もっと違うことになっていただろうと思う。その本には、実に簡単な基本がかかれている。英語は左から右へ言葉を並べることで成立する言語である。日本語はてにをはの言語である。両者は言語学的にも根本的に違う。つまり、日本語を知っていることが邪魔なのだ。言葉を左から右にならべて意味を生成させる、という技法が「言葉をつくる」ということだとは夢にも思えなかった。しかし、言語にはいろいろありえるだろうから、そういう理解があって当然。日本語の発想がなくても言葉がつかえるということに気がついた気がするのだ。これは、本来ならば、中学の最初で教えることだろう。なぜ、Tom is a boyの訳からはじめるのか。つくくづ、ひどい話である。

左から右。左から限定。右には説明。


 英語の発想はこれにつきるらしい。言いたいことを言葉に変換する。大切なことは、文を構成し終わってから発話するのではなく、発話するにつれ言いたいことが明確に表現されていき、単語なり句なりを並べ終わった時点が文の終わりになっているところだろう。つまり、発話の最中に考えることが「原理的に」できる。一方、日本語訳から英語を発話するには、言いたいことをいったん英文に翻訳して、それから順に発話する必要があるため、考えている最中に効くことはできないし、翻訳中に英単語が思いつかないと全く言葉を口にすることはできなくなるし、ニュアンスらしきものを修正しようとすれば、全文書き換えになってしまい何をいいたいのか忘れてしまうことになる。だから、英語で考えろ言われるのだ。

 英語で考えろといわれて、英語で考えられるわけがない。なぜなら、英語がわからいのだから。もっといえば、何もするなと言っているのだ。しかし、別の見方をすれば正しいことを言っている。表現を変えて、英語の語順で発想してみたらどうか、つまり、右から左に単語・句をならべていくことだ。そう言ってくれれば、わかる気がする。というか、よくわかる。この場合面白いことに、言葉を紡ぐ作業は絵を描く作業というか、ゲームのような気がしてくる。単語という駒を順にざくざくと並べていくことで自己表現しているのだ。うまく並べられると、自分の気分を表現できて満足感を獲ることができるのだろう。

 こうなると、これは理解ではなく訓練になる。チェスは駒を動かすのだが、英語はドミノのように言葉を並べていく。上手に並べると満足。確定していることを最初から並べていくことで、途中で考えていくことも可能になる。なるほど、英語は結構面白いかもしれない。

 まったく、良い本に出会えるがもっと早い時期なら良かったのにと思う。しかし、あえないで死ぬよりいいだろう。そうおもって、アメリカにきて『ハートで感じる英語塾』を呼んでいる。まさに、泥縄である。