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どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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言葉への感度が足りないのだが、どうすればいいのだろうか

理系という呪縛から逃れる


 自分は理系である。大学入試のために便宜的にグループ分けしただけのカテゴリーが、自分の人格や社会的な位置づけにまで利用されてしまっている。社会というか世の中がそう見るのと同時に、自分についての紹介でも使っているし、存在理由の一つしているような気がする。

 おれは理系だ。文系じゃない。科学的に考え、工学の徒として技術を持っており、社会にたいして恩恵を与えている。とまぁ、そこまでは言ってないけど、近いものをもっている。日本では職人はその技術をもって尊敬されている。株屋と職人ならば経済的には株が優先されるかもしれないが、人としては職人が信用される。もっとも、同類の間では互いに互いを信用しないものだけど。もちろん、それは、文科系と理科系人間の間でも溝があるのは同じだ。

 理系、文系は入試終了ともに消し去る必要があるが、それにずいぶんと苦労したせいか、なかなかレッテルを外そうとしない。あることを学ぶには学問対象を別の切り口で分けることもいいのだけど、それができない。理科系の典型は、結果的に文科系の範疇に入ることをことごとく知らないで生きていく。映画や音楽などは許容しても、美術だとか文学だとかに足をつっこまない人が多いように思う。もちろんそうでない人もいるのだが、多数の人は文系と称される分野に対して興味をもっていない。理系でできる人ほど理系への純化をねらっているようにも思える。まったく、残念なことである。

 ぼくも理系だった。理系の大学、大学院へと通い、博士号(工学)まで取得した。そして、理系の研究所で職を得て、工学の仕事をしている。いわゆる、典型的な理系であろう。20代まで、それでとくに困ることはないかったが、30代に入り何かが足りないと感じ始め、30代半ばで文系の素養が全く無いことに唖然として、そこから理系文系で物事を見ないようにした。本は好きだけど、解説書やエッセイはよく読むが、小説はぐっと少なく、詩に到ってはまったく手にしない。

住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。

 漱石の草枕の一説を読めば、詩とは大抵の人と関係があることがわかる。どうやったって、住みにくい世の中に今の人間も生きているのだから、詩は誰にだって関係するはずなのだ。だけど、それを「文系」と判別して、人生から切って捨てた自分が恨めしい。なるほど、勉強をする理由は勉強した後にしかわからない、という言葉の意味を涙とともに体感するのである。

論説文ですら理系のセンスだけでは書けない


 余暇を過ごすため、あるいは、人生を豊かにするために文系的なものを欲したのではない。文系的な感覚の欠如に気がついたのは、論文を書いているときであった。すらすらと読みやすい文章が書けない理由をさぐっていたら、なんてことはない、読みやすい文章のあり方は文章の構造ではなく、言葉の置き方にあるのだと気付いたのだ。

 それまでは、論理的な文章の構成ができてないから、分かりにくい文章になるのだと思っていた。実際、定評のあるビジネス文の教科書には「ピラミッドメソッド」や「MECE」といった、欧米でのテクニカルライティングについて語ってくれることが多く、そういう授業を全く受けたことがないぼくは感激しながら学んだのだ。ずいぶんと練習し、レポートなどでも「面白い」と他人からの評価を貰えるような物はかけるのようになったのだが、いかんせん、日本語としては上達していないかった。

 文章の構造は明確で論理的なものにしてあるのに、自分で読んでも「良い日本語」にならないのはなぜなのだろうか。最初は、助詞・助動詞の使い方や語彙が少ないことが原因だろうと思っていた。日本語は単語と単語を助詞でもってくっつける言語なのだけど、それがノイズにみえてしかたなかったので、できるだけ排除し、短くなるよう心がけけた。「である」という語尾がなぜ必要なのだろうかわからないので、なるべく使わないようにした。「いる、ある、できる」という語尾をつかえば短くていいじゃないかと思っていた。しかし、どうもそういう発想ではダメなようだ。

 ごく最近だが、梅原猛の日本語の古語についての本を読んでいて、気がついた。現在の日本語は、縄文時代の原日本語が発展してできたようなのだが、その古語はアイヌ語に残っているらしい。万葉集などの枕詞で意味不明なものや慣用句になっている語源がはっきりしない言葉(たとえば、ちゃちゃをいれる)などは、アイヌ語だと思って解釈するとすっきりと意味が通るらしいのだ。

 どうしてなのかぼくにもわからないが、その話を読んでいてたら、語感というものをこれまで無視していたことに気がついた。日本語はなぜだがは知らないが、5・7・5になっていると簡単に脳にしみ込む。3と4で7もあるので、3,4,5,7となるように音が組み合わさっていると、音が脳にしみ込む。いってみれば、インピーダンス・マッチングされるのだ。そして、それが語感へとつながっていく。

 例え書き言葉であっても、3,4,5,7で分節がくぎられるような日本語は頭にしみ込み。なんの違和感もなくしみ込むのだ。そのとき、「〜だ」や「〜である」という言葉の存在がわかったのだ。あれは全部、音の数を5,7調へと調整するためにあるのだ。フィラーであり、インピーダンス・マッチングのための部品なのだ。情報という面から言葉を見れば全く無為になのだが、音として、あるいには日本語を脳に入れるための調整用のフィラーと考えれば実に重要なものなのだ。これは、理系的な発想ではでてこない。どんなに論理的な文章構造を追求しても、ダメ日本語になってしまう理由は、詩を学んでいないことが原因だったのだとぼくは思う。

まずは詩だ


 韻を踏むというような形式を学ぶ以前に、詩について理解してみたい。理解ではなく、いいなぁと思えるようになっておく。これは、能力開発においてかなり難問の部類である。なぜ感動するのかについては解かれていない問題だと思うが、それをやってみようというのだから。好き、嫌いを制御するようなもので、そんなことが簡単にできるならば、ホレ薬のようなものができるかもしれないくらいだ。ああしたらこうなる、という制御の発想で立ち向かうと失敗する。では、どうするのか。

 絵画を見る目を養ったときのことである。何を重視したかといえば、(1) 良い作品のホンモノを、(2) 静かな環境で、(3) 時間をかけてみることである。これは効いた。布施英利や茂木健一郎の本をいろいろ読んだあとでとった対策だが、比較的短期間に絵が好きになったのだ。ただし、なかなか3条件そろえることはできない。(1)を満たすものが海外からくると(2)は絶望的になる。ぼくの師匠となる美術館は東京駅近くのブリジストン美術館である。人が少なく名画を長時間干渉するにはあれ以上のところは東京にはない。

 では詩についてはどうしたらいいのだろうか。まだわからない。鴨長明の有名な一文は完全に詩である。エッセイでありながら詩になっているのがスゴイが、俳句あたりを繰り返し読むか、万葉集あたりに戻るか、いずれにせよ定型詩を集中的に読んでみる必要があるのだろう。フッと思うのだが、中学校、高校の国語の先生であっても「映画好きのような意味で詩が好きだ」という人がどれくらいいるのだろうか。それを考えると、イバラの道が待っていそうである。