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どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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そうだ、須賀敦子を読もう

どれだけ有名なのか知らないけど、ぼくは魅かれている


 須賀敦子という人がある。小説家ではなく、大学の先生だった女性である。専門もイタリア文学かなにかで、要するにぼくとは縁がない人だ。その作品も晩年にいくつかあるだけで、いわゆる小説家ではないようだ。一般的な知名度もよくしらない。戦後早い時期からイタリアに住み、現地の人と結婚し、日本文学の翻訳をしていたようである。イタリア遊学しているうちに住みついた塩野七生に近いような気がするが、両者の作品を読んでいても互いに言及することもないし、片や最終的にはアカデミックな文学者、片や著名な在野のルネッサンス・ローマ史の作家と世界が違うので、知り合いなのかどうかは知らない。

 日曜日の午後、太陽が少し傾き始めた頃に、人生において大事なものを忘れた気分がしてくることはないだろうか。最近、ずばりこの気分を言い当てる本を読んだのだが、どうやら私も哲学をしなければならない時期にいるのだと了解した。もっとも、ここ数年ずっとそういう気持ちだったから、無意識にせよ何かを探し求めていたのだろう。それと、須賀敦子とどう関係するのだろうか。

 『コルシア書店の仲間たち』という小説というか回想録というかエッセイというか、池澤夏樹によれば「報告」と評される本がある。薄い文庫本で、あるとき手にして一気に読んでしまった。これまでに3回は読んでる。さて、これ、どこが面白のか、何に魅かれるかと言われても答えられないのだ。ぼくには縁がなかったことだし、これからも縁がないタイプの人たちのことが書かれているのだが、どうにも気になる。なぜだろうか。思うに、この本には、戦争の傷跡、宗教、教会、文学、詩、社会運動、ミラノ、ローマという自分とは関係がないことが書かれているからではないだろうか。

歴史に参加している感


 ぼくは戦争をしらないし、高度経済成長期の後半に生まれ、石油ショックも学生運動もしらない。普通に公立の小中高大と学校へすすみ、研究所に勤めている。その間、日本の歴史に立ち会ったという記憶はほとんどない。大きな事件や事故、社会運動に遭遇したこともない。バブル崩壊の頃には社会に興味をもっていなかったし、阪神淡路大震災があっても東京に住んでいたので実際の被害を体験していない。それは、とても幸せなことだと思うのだが、時間を自分の身体に刻み込むことで否が応でも成長したという経験がないので、いまだに幼児なんだといもいえる。ある意味、残念なことである。

 『コルシア書店の仲間たち』には、ぼくが持っていないものが書かれているような気がする。だから、はっきりした理由もなしに魅かれたのかもしれない。人の経験には含まれているはずな、戦争の傷跡、宗教、詩、社会運動、そして、歴史というものが自分に全くない、という事実を無意識では把握しており、それらを他人の記憶でうめるべく魅かれているのかもしれない。それは、実に適当な言い訳かもしれないけど。

 ぼくですら不足しているのだから、今の理系の学生には「全くない」のではないかと思ってしまう。いや、頭の良い人は一定数常に存在しているので、そういう人については心配する必要はないのだが、かつてのぼくと同じような人は危機的状態であろう。そして、その人が30代半ばを過ぎた辺りのぼくと同じように「何かたが足りない感」をもち、それに気がついたときはぼく以上に絶望するのではないか。いやその逆でまったくそういう心配をしないでいいのかもしれないが、他人のことはよくわからない。でも、人がそんなに変わるとも思えないから、やっぱりぼくのように「何かが足りない」を哲学する人も結構いるのだろう。