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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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100を越えるかどうか

読書と同じ方法をブログに適用してみる


 ブログを書き始める。書き始めたときは、始めたくらいなのだからとりあえずブログの内容がある。しかし、数日たつと気持ちがしぼんでき、何を書くこうにもなにも浮かばなくなる。そして、更新がとまる。忘れた頃にまたやる気になる。人の噂と同じように2ヶ月ちょっと(75日)だから不思議だ。書き出しては止まる。この繰り返しである。そして、大抵の人はそうなのではないだろうか。コピー・ペーストや数行のボヤキであっても、続けるには情熱が必要で、どんな内容であってもやれるひとはやれないひとよりスゴイと言える。

 ブログを続けること自体が目的ではない。他人が受け入れてくれるような文章を作成でいるようになることが目的で、ブログはだめな人であっても書いていいのだから始めてみた。この状況は読書と同じような気がする。本を読まなきゃ、と思って始めるときは当然本が好きではないはずだ。それでも、本をすらすらと読めるようになった暁には、教養や情報を身に付けることができるはずで、そうなりたいと思っているはずだ。いきなり高負荷にするとエンストする。始めはゆっくり、なれてきたら徐々に負荷を上げ、できるようになったら飛ばす。これは、人が行うどのようなことにも適用できる知恵である。本も最初は一週間に1冊から一ヶ月に10冊へと勧めていけば良い。

 慣れないことが慣れ始めるのはいつごろなのだろうか。物によって違うはずだが、本なら100冊を読んだあたりだった。具体的には、読んだ本の感想をメモしていく、という作業を始めたとき、100冊ぐらいから感想を書くのが苦にならなくなった。上手なものが書けるようになったのではない。個人的な希望だが、1000冊越えるとちゃんとした感想が書けるようになるのではと期待している。あるものの質はそれをこなした量によって、断続平衡的に変化するものだと思っている。そして、それはブログも同じではないかと思う。

何についてかくにせよ、きちっと考えること


 毎日できるだけ続けること。ただし、惰性でやってはだめで、惰性が身につくらいならばお休みしたほうがよい。内容のレベルではなく、作業の正確性を問うている。面白い面白くないは制御できない。どんな人であっても、面白いものを書こうとしてもうまくいかない。だから、プロと呼ばれる人がいて、その人たちであっても上手にこなせないことがある。気をつけるべきは、きちんと考察して言葉を紡ぐことである。

 自分が何を考えているのか、自分でわかった気になることがよくある。そして、常に把握していると感じている。普通の人はそう思うだおろう。しかし、自分が何を考察しているのかを目にすることはめったにない。目にするためには外へ出さないとだめで、そのためには書かないといけないから。普通は口頭で説明するか議論することで済ます。気の知れた相手なら説明を尽くさなくてもわかってくれる。二人で話せば、じつは二人で考えているのだけど、自分で考えたことだと勘違いできる。考えた量も多く、ある程度満足することも多い。しかし、実際はそうではない。その証拠に、考えたと思っていることを表現すれば、実につまらないことをしかもちょっとだけ考えていたことがバレる。

 自分が考えたことの善し悪しは、外に出してみてはっきりする。これは経験的に身につくものである。しかし、運がわるいと気付かないできてしまう。自分の能力をクールに知るには言葉で表現するに限る。論理の抜けや論理の構造そもそもがよくわかる。他人のものが悪く見え、自分のアイディアが良いものに思えることがよくあるが、それはこの理由によるのだ。外へ出せ、さらば吟味せん。その態度が自分を救うことになる。

 ぼくが今こうして書いていることは自分の経験則で、これまで話すことしかなったことだ。何度か学生さんたちに話したことがあるので、こうして文章にしていても困ることはない。すでに一度誰かに話をしたものならばクールに記述できる。しかし、考えつつあることは絶対にそうはいかない。苦しくて、内容がなくて、だんだん考えよう、書こうという気が失せていく。そういうものである。

 対して考えていないときにそれを文章にするとすぐにバレる。眠いときもそうだ。書く訓練の前に考える訓練が必要ならば、いい加減に考えないことだ。いくら字面がそろえられても、自分が書きたいことではないものならば行動そのものに意味がなくなる。ぼくは文章をつかって考えを他人にも分かりやすく表現したい。他人にわかるくらいならば、自分ではすごくわかっているはずだし。そもそも、研究は考えることが仕事であり、結果を他人に伝えることが仕事であるのだから、上手にできなければならない。論文を書くことはできても、大勢の人に読んでもらえるような文章をかけたりはしない。だから、訓練が必要なのだ。