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vietatofumare.grazie のblog

どうしてなんだろうか。隅田川を眺めながら清洲橋で考えた。

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HOME > 2008 > 03 Feb

不思議なこと

偶然だろうけど、そうとは思いたくない


 ある年齢になれば友人がぼつぼつといなくなる。疎遠になることもあるが、死んでしまうこともある。まぁ、仕方がない。自分の身におきても、おかしくない。そういう年代に入ったのだ。

 先日も大学時代の後輩が亡くなった。愛媛大学で准教授をやっていた。まじめな人だった。いじめたくなるくらい実直だった。仕事を一人で抱え、小さなお子さんと嫁さんを残し、たまたま誰もいない自宅でひっそり息を引きとった。発見されたは、奥さんが自宅に戻った数日後だった。

 そういう話を聞いて、葬儀に飛行機で松山まで駆けつけた。通夜に出席するし、久々にあう人たちも何人かいるだろうから、ホテルも予約しておいた。不謹慎かもしれないが、メッタに行くことがない松山だから道後温泉ぐらいは見ておこうとインターネットで案内探し、チケットなどはすべて予約しておいた。

 不思議なこともあるものである。誰と行くかなど約束していないのだが、飛行機の便が少ないからか、空港発のバスに乗ったら友人に逢った。声を変えて隣へ座った。4年後輩くんだった。やぁ、ひさしぶり、驚いたよね。そんな挨拶をした。時間は2時、通夜は6時。時間がある。このバスの終点は道後温泉。おればせっかくだから温泉に入っていくと言ったら、後輩も行くという。断る理由もない。坊ちゃんで有名な温泉だ。一緒に風呂に浸かり、2階で天目で出されたお茶を飲んだ。では、それぞれの宿に行って礼服に着替えるかと宿を聞いたところ、同じビジネスホテルだった。偶然である。

 そういうわけで、その友人と色々話すことが出来た。いや、話し足りなかった。この偶然がなければ、こんな時間をもつことはなかっただろう。そこで、ふと思う。やつがチャンスを作ってくれたのかなと。私は信心深いどころか、何も信じていない方だ。それでも年齢を重ねるに、仏教でもキリスト教でもあったほうが人々のためになる。死んだ人間が現世にいろいろ取り計らいをしたっていいだろう。そう思うようになってきた。

 少し脱線する。意識と無意識について考えることがある。フロイトは偉かったとか、心理学はすごいといったレベルの理解しかない私だが、それでも知能について考えば、意識が自我につながっており、自我が認識でない無意識も同時に自分の身体を支配していることに気付くものだ。つまり、自分が知らない自分の知能が物事を円滑に進めていることがあると自分の行動から知ってしまう。そういうことがある。自我が付着していない知能もあるのだ。

 飛行機を選ぶ。ホテルを決める。全く自我のおよぶ範疇で決定を下していたが、実は無意識がいろいろちょっかいを出していた。ユングではないが、無意識が計画を持っており、他の人もそういうことがあった。それだと意識は気付かない。だから偶然に感心する。しかし、それはすでに予想し計画されていたことなのかもしれない。不思議なことは、自分が「不思議だ」と思うことがその根拠である。人の行動は自分が気付いている以上に無意識に支配されている。そう、思うようになった。