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決心よりも時間の使い方

行動を変える方法


 そうだ。自分の行動を変えてみよう。違う自分になってみよう。

 などと考える人はどのくらいいるのだろうか。小学校から大学を卒業するまで、夏休みの宿題はギリギリにならないと始めなかった。そういう人、多いのだと予想する。あるいは、正月にやたらと勉強の予定を立てるなどは社会人になってもありえることだろう。このような場合、今年こそと意気込むと同時に決心するのだが、大抵ムダな結果に終わる。なぜだろうか。

 意思の弱さだと言ってしまえばそれまでだ。ダイエットができない人が圧倒的多数だから、裕福な社会ではダイエット本が絶え間なく出版されるのだ。エクセサイズもそう。決心だけでなく、行動のきっかけを作った人でさえも、ほとんどがうまくいかないことになる。ほとんどの人間は意志が弱い、ということですましていいとも思えない。

 意思の問題にしてしまったら、それを克服するには意思しない以上自動的に「あなたには絶対にできない」ということになる。まぁ、そういうことだ。だから、困ってしまうのだ。つまり、決心などしても結果的には自分はダメだという結論になるのだから、決心などしないほうがいいと直感的に学習してしまうことになり、何もしたくない人になってしまう。

 では、どうしたらいいか。私が一番よいと思った方法は、大前研一さんの著書にあった「時間の使い方を変える」という方法である。次に、中谷彰宏さんの著者にあった「引っ越しをする」という方法である。実際、それらを試してみたがある種の効果は絶大だった。しかし、ダイエットなどには無力であった。


時間の使い方を変えてみる


 この小文を書くきっかけは梅田望夫さんの著書。「時間の使い方を変える」ことについて強調されていた部分を読んで、自分もそれを心がけているから思い出したから。賢者はこういった生活のコツを身に付けている。本当に。そういうものを耳にしたら一度はマネしてみることにしている。やってみてダメだったらマネしなければいい。

 一番最初に週末の使い方をいじる。次いで、夕ご飯を食べてから寝るまでの行動をいじる。時間は増えないので、これまで毎日していたことを削ることから始める。例えば、新聞を読むとかニュース番組を見るということが削除対象としてよい。社会人として「知っていなければならない」ということは、実は少ない。

 僕は、自分との関係でニュースの価値を判断している。「それを知って、どうしろってのよ。」これが判断基準。例えば、交通事故や政治のニュースって、いらないです。いや、政治に無関心はけしからんとしっても、実際問題、選挙時に都内で1票投じても「ほとんど意味がない」。そういう不真面目だと批判する人もいるかもしれないが、実際問題意味がない。

 例えば、宝くじは買わないと当たらない。では、買えばあたるかとういうと、多分当たらない。当たっても1000円がいいところ。稀に1万円くらいなことがあるかもしれない。でも、そんなものに一喜一憂したり、数万円支払ったりすることのほうが愚かしいでしょう。1年間の結果を総合してみたら負けが込んでいる筈だから。それに、ニュースはマスコミの人の「意見」でしかないので、読む側はニュースを見ても事実を知り得ない。事実を知り得ないし、知ったところでどうにもならない。それを一言で表現すると「無関係」となる。そういう意味で、ニュースなんていらない。

 こういう具合に生活から要らないことを探し続けると、いもづる式に「いらないもの」が見えてくる。僕の場合は、本読みと紅茶を飲む時間に変えてしまった。今にして思えば、なんで「一般的な社会生活」を踏襲してのか不思議な感じがする。

 行動を変えると価値観が変わる。決してその逆ではない。どうも、その辺を理解する人が少ない。というか、体験された方が少ないようだ。研究室の大学生さんと話をするが、だれもが「面白い」ことをやろうとしているだけで、やっているうちに面白いと思うようになったということを語る人はいない。もっというと、「面白いからのめり込むのだろう」と思っているのであって、「やってみたら面白かった」という前段に気がつく人がない。

 それで、昔に比べれば物事をそれなりに見ることができるようになった、と思う。絶対的には分からないけど相対的には良くなった。劇的には良くならなかったけど、3年もすると変わっていることに気付く。そういう程度なんだけど。


引っ越しをしてみる


 引っ越しをすると、住む場所が変わる。通勤にしても、時間にしても、すれ違う人にしても、休日の過ごしかたにしても、嫁さんのパート先にしても、劇的に変わる。すると、会う人が変わってくる。その影響で、自分も違う視点を持てる。これは、中谷彰宏さんの本にあったことで、文字通り「すぐに」やってみたのだが、すっごく良い結果を得られた。時間の使い方は人格に影響がでるようなゆっくりした速度で人を変えるが、引っ越しは「てっとり」早く変わる。もちろん、成功すればいいが、失敗するとダメージもでかい。劇薬なようなものだ。

 私の場合、引っ越ししたことによって長い電車通勤になった。片道2時間半かかる。ただし、そのうちの2時間の電車は、行きも帰りも「必ず座れる」ので疲れない。おまけに本が読める。iPodを聴ける。パソコンを使うこともできる。いろいろ良いことがあった。

 これも、通勤という時間の使い方を強制的に変えた効果なのだが、読書タイムが一日4時間とれるのはスゴイ影響を自分に与えた。考えてみるとよい。20日(回)x4時間で80時間。月にして10−20冊の本を読むことになったのだ。これで考え方がかわらんわけないだろう。

 DVDを見ていた時期もあった。最近は、iPodでBBCのニュースを聞いている。勉強することにうってつけなのだ。都心に住んだため、通勤はラッシュとは逆なので本質的に疲れない。引っ越しは劇薬なのだ。


そして気がつくと足りないものは出力


 決心をしないで自分の時間の使い方を変えたことによって勉強できるようになった。すごく勉強した。といっても、結果はすぐにでない。ゆっくりとしか変化しないが、結果的に少しは勉強できたようだ。しかし、これで終わったら何もしなかったのと実は変わりがない。

 これだけ費やした時間は一体どうなったのだろうか? ペイしたのだろうか。 確かに、「勉強したかいがあった」ということを私は表明するわけだが、他人から見たら「それ、本当?」と言われるだろう。無理もない。私のことなど他人は分からんからだ。

 実を言うと、自分でもどれだけ効果があったのかは感触でしかない。気分のようなもの。あれだけ勉強したのだし、良く考えるようになったし、ある事柄に対する意見も論理として積み上げることができそうだ。でも、しかし・・・。

 あるアイディアがひらめく。自分でもビックリするくらい大発見な感じがする。うかつに人には言えない。言ってはいけない。そういう気分がする。でも、実は誰もそう思うらしい。そして、実際思いついたアイデアを紙に書いて整理するとひどくつまらないものに見えてくる。え、こんなくだらないことだったのか。自分の才能のなさにがっかりする瞬間である。

 考えたことを紙に書いてみることは、自分の頭の中にあるものの評価方法として簡単して完全なものである。ナルシストでもない限り、他人に評価してもらう必要がない。自分でその紙を見てみると「つまらん」ものはすぐに気がつく。他人に見せて評価してもらっても、お世辞を除けばだいたい同じような結果になるだろう。

 勉強をしたら結果を出すべきだ。自分に対する試験なのだ。どのくらい実際問題理解できたのか、それを自分で計測できる方法なのだ。このテストで一定以上の点数をとれないとどうなるか。状況にもよるが、再履修するか、ダメだったことを覚えていていつか再履修することだ。そうことは、自分で決めて良い。


だから、ブログなのか


 ブログはテストなのだ。一日生きていれば、いろいろな情報を頭にいれているはず。いろいろなことを考えたはず。教科書に負けない専門性のブログを作る人がある。素晴らしいことなのだが、誰にもできることではない。できればいいとは思うが、それがこの瞬間の自分に合っている方法ではないかもしれない。日記は、視点が自分で送信先は未来の自分ということになる。他人が見る必要はない。エディタでテキストファイルをつくればいい。どうして公開する必要があるのか。

 しょうもない話が、私はこれについて数年考えている。すくなくとも3年は折りに触れ疑問に思っている。そう思ってなんどか頭を整理した。誰かが読んでくれることを想定していたが、実際問題誰も読まない。まぁ、当たり前なのだが。誰も読まないならば、ブログの意味があるのだろうか。

 その答えはオープンにしておく。村上春樹は書くことで考えると言っていた。物書きはそうだろう。今こうして自分で文字を入力しているが、書くことは確かに考えることだろうと実感する。先にもいったが、「おれはこれでもいろいろ考えている」と思っているが、たいしたことを考えていないことがバレバレになっている。

 自分のパソコンの中にあるファイルにしまっていあるファイルに対して、誰かがコメントをつけることはまずない。あり得ない。しかし、ブログならば全くないとは言えない。何かの間違いで目にする人がいるかもしれない。宝くじと同じような話だが、まぁ、その程度の意味しかもたないとしても公開する意味はある。

 この活動を数年続ければエントリーは数百あるはずだ。それは、自己紹介としては信頼できるものになるだろう。エントリが多いならば、偽造はできないだろうからだ。この先、自己紹介をする必要があるのならば、このブログのアドレスを名刺がわりに示せばいい。『ウェブ進化論』的な世界は、ある一定の状況にる人たちに関係があるのかなと思っていたが、こうして自分でアクションを起こしてみれば、自分にも関係あるのかもしれないということに気がつく。毎日更新することは、毎朝のジョギングよりもきついのか楽なのか、やってみないと分からない。