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ろくに考えないで生きてると実感する

今日は何がしたかったのだろう


 やれやれ、今日も深夜になった。仕事をしていたので遅くなったのではない。ちょっと自慢気に、オレは働いているのだぞ、と言っているのではない。たいしたことをしないうちに終わっちゃった。とほほ。そういう悲しみである。

 今日は休日だった。だとしても充実感がない生活はまずいんじゃないか。そう思うことがある。家でだらだらしていたわけではない。ソファーで寝ていたわけではない。食材の買い物をして、本屋で新刊を買って、アマゾンで新しく買ったiPodをペリカン便から受け取った。掃除もしたし、植木に水をあげた。嫁さんはケガをしている。だから家事を手伝った。それなりにイベントがあった。しかも前向きのものだ。それなのに無為な感じがするのだ。なぜだろう。

消費者として人生に参加している


 その原因は、「消費者」としてしか生きているからかもしれない。つまり、お金を出してモノを買い、買ったものを使う。使いながら、次に買うものを考える。この繰り返しだ。せんじ詰めれば「何を買おうか」しか考えていないのだ。内田樹さんの著書を読んでから、そうとしか思えなくなってきた。

 買い物は楽しい。そのように売る側が演出してくれているのだ。それに不満はない。しかし、本当は気がついているのだ。無意識のレベルでは。「オレは金を使っているだけの存在」だと。自分の人生はその行為で一杯になっているということを。

 いわゆるクリエイティブな仕事をしている人はどう感じているのだろうか。ぼんやりとした寂寥感のようなものは感じないのかもしれない。感じないのではなく、そもそもないのかもしれない。買うの反対は売るか、自分で作るか。両者ともにうまくいけば満足感が得られるし、人から感謝されるし、なおかつ収入も増える。でも、そういう人の動機に収入増は(一瞬だろうけど)気にならないかもしれないけれど。

クリエイティブからの脱出


 満足感を得ることが目的ならば、なにもクリエイティブにならなくてもよい。モノの交換から離れればいい。するとどうなるのか。隠遁生活とうことになるのか。その発想は直球だが、成功した人は歴史的にみても少ない。

 経験則として有力な方法がある。それは、満足感の度合いを常にモニタし、それが(わずかでも)増加する行為は何だったかを知ることだ。わずかな変化というところが重要。満足度に大きく影響することはだいたいほとんどの人で同じだ。だから、多くの人がそれを求めているから今からその争奪戦に参加しても「空き」がすくないだろう。収入増を狙うことをみれば明らか。しかし、「わずか」に影響することは人によって大きく違うだろうと想像する。どうでもいいことに近い。ならば、そういう行為によって「わずか」な満足度増を狙うのは、競争が少ないかもしれない。そう、間違いなく「空いている」はずだ。

 何が自分にとって「わずかな」満足度増をもたらすのか。これは観察なくしてありえない。これからその観測を始めるのもよいが、そんなことしなくてもいい。それには、「過去の満足度増をもたらしたこと」を思い出せばいい。ちょっとうれしかったことは何か。良く思い出せばいくつか見つかるだろう。

 この行為を小さな幸せに逃避するといって非難する人がいるかもしれない。でも、みんながデカイ幸せを追ってどうするんだろうか。みんなが全員幸せになるはずないし、それに幸せが3倍、4倍と増えることもないだろう。ある刺激以上は飽和して、違いを感じられないだろうから。感じれないものを手に入れても意味がないし、それが他人の幸せを減らすことになったらもったいともいえる。

 

考えるとそれなりに効果がある


 寝る前にTWININGS LADY GREY TEAを飲む。Macに向かって考えていることを言葉にする。眠くなったら暖かい布団に潜り込む。明日のご飯は何にしようか。ぼくにとっての幸せはそういう毎日の繰り返しの中にある落ち着きである。その環境を整えるのにはそれなりの生活費がかかるし、家族や仕事や住んでいる環境に問題がないようがよい。決して「お金がなくても得られる」というものではない。しかし、だからといって、夢みたいなものでもない。

 ちょっとした幸せを探したら、どうすればそれを再現させることができるか考える。再現できるのならば、それを生活の中に組み込み、なるべく毎日繰り返すようにする。それくらいは、考えばできる。つまり、考えて、ちょっと行動すると宝くじよりも確実な継続的な幸せを得ることができるのだ。それって、おかしいことなのだろうか。人生負け組の発想なのだろうか。

 若いうちはそういう発想はできなかった。これも歳をとったおかげ。