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"みんな"がブログを書くと社会は変わるんじゃねぇか

動機はなにか


 自分が文章を書きたいなぁと思っているせいだろうけど、「小説の書き方」のような本は書店の棚に結構並んでいることに気付く。文庫もあるし、新書もある、単行本もある。何か特定の目標を想定した教科書もあるし、賞を狙う方法もあるし、ビジネス文書のような実用書もあるし、人生の楽しみをつくるためといった啓蒙書もある。結構ある。

 別に小説家になってみたいという思いはない。少なくとも、努力野目標として燦然と輝く位置に小説家はいない。書けたらいいよな、というムシの良い妄想としては存在する。しかし、それが動機ではない。

 痛く感心する本を読むことがある。そんな人のように自分も「考えられたら」いいなぁというのが本音である。考えたあと、それをきちっとした形でとどめ、世の中に「価値のある」と認められるのはどんな気分なんだろうか。少なくとも、バカではなかったという気分になれるだろう。本を書いてみたい。だから、こうしてブログを書いているのだけど。

書いているうちに内容が形成されることも


 例えば、スゴイ凝った教会があったとしよう。あれ、彫刻の細部についてどのくらい決め手から製作作業にとりかかるのだろうか?

 「じゃ、そんな感じで。」という緩い約束しか決まっていないのだと思う。

 なぜなら、製作期間が100年以上かかることがよくあるから。そんなに長い間図面を保守できるはずないし、職人も入れ替わってしまうし、ないより人々の「感覚」が変わってしまうだろう。



PB081154.jpgシエナでみた教会。冬の青空の下で輝いていた。

 このページは、とりあえず書いてみることからスタートした。この文字を打ち込んでいる時点で結論は持っていない。実際、どうなるか試しているのだ。奥さんにボヤクように書いている。書いているうちに話が発展して、というようなことを期待している。

 フロイトではないが、自分が考えていること全てを自分が把握しているわけではないだろう。そうではなく、考えつつあることがじつはすでに無意識下では終了しており、それを意識が関知して少しずつ文章に変換しているだけなのかもしれない。

問題は文章の上手下手にはないのではないか


 なにを書けばいいのですか?

 実はこのページもそれを悩んでいる。文章の善し悪しではなく、書くという行為についての動機が、内容がはっきりしていない。おそらくだが、ブログを始めたほとんどの人はこの問題を克服できないのではないだろうか。

 プロは文章が上手で当たり前だけど、書いていることが面白くなかったら読まれるものにはならない。普通の生活を日々つづけるだけでは、他の人と同じになってしまう。書くためにはそれ以前に行動をしかけていく必要がある。

 普通の人が面白いブログを続けることを動機としたら、惰性で生きることプラスなにか行動をしはじめるだろう。それは、社会にとっていはいいことのような気がする。活性化する、というような意味で。

 だから、多くの人がブログを書くようになったら、社会は変わるような気がする。

 ただし、皆がよいブログを書くようになると、「良い」の基準は変わってしまう。インフレような現象が起きる。結局、同じようなことに悩む人はその世界でもたくさんいるのだろう。