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道具の持つ魅力

道具と師匠


 道具をみるとうれしくなる。そういう人は男女を問わず結構いる。道具そのものが好き。道具を使って作業している自分を想像するのが好き。道具を使うことでスゴイ作品が作れそうな気分を味わうのが好き。それ以外にも動機はいろいろあるだろう。道具そのものが好きという人を除くと、自分の能力を高めることに興味を持っている。

 何かを覚えることだけが勉強ではない。何かができるようになることも勉強だ。この場合、頭をフル回転させて体をつかって練習をすることになる。しかし、がむしゃらに練習してもでも、ほとんどの人は結果をだせない。良い道具ほどよい使い方が求められるもので、それは師匠から教わる必要があるから。

 あることを上手にこなすには、それそうおうの歴史を自分に取り込まないとダメだ。先生に付かないことは人の歴史を軽んじている。一夜にして上手になる人はいない。日々の積み重ねが必要になる。それはすなわち、歴史を味方につけることである。だから、道具を手にいれたら、何らかの方法で師匠も手に入れよう。直接教わる機会がないのならば、何か参考になるものを探すよりないけれど。

負け試合


 何かを学ぶことが目的ならば、師匠がいないからといってやめる必要はない。たしかに、師匠ありと師匠なしでは師匠ありの方が圧倒的に有利だが、師匠との関係に運不運があるはずで、師匠があったとしても有効に機能しないこともある。それに人の出会いだから、いないものはしかたがない。

 どうしてもやりたいという意思があるなら、やればいい。あとは工夫次第だ。歴史を相手に闘うのならば当然不利だが、負け試合であっても楽しむことはできる。「人生は一度しかない」なんて大上段に構えなくとも、「あらゆる機会だって」も実は一度しかない。ならば、どんなときでもやってみる。負け試合でもする価値はある。

 ぼくの前半を振り返ってみると師匠はいなかった。師匠に会えるかどうかは運次第だ。そういうと、自分の行動の結果を人にせいにするといって非難する人もいるだろう。しかし、なんだかんだ言っても、人との出会いはいろいろな条件がそろって意味をなすものだから、師匠に巡り合えないこともある。仕方がないのだ。見方を変えると、それは未来は分からないものだ、というのと同じである。友達や伴侶を探すようなものと言っていいだろう。

 では、師匠なしの人はどうすればいいのだろうか。このまま朽ちているしかないのか。そんなことはない。完璧とはいえないが方法ある。それは、過去の人を師匠とすることだ。すでに死んだ人であっても、真剣に接することができれば師匠になりうる。もちろん、実際に人に接するよりも薄い影響しか得られないが、「ないよりまし」であろうし、へんな師匠よりは数段上だ。

 過去の人を自分の師匠にするためには想像力が要求される。実際あっていない人の言葉をまさに自分に向けられた言葉だと思う想像力が必要になる。悪い言い方をすれば、すごい勘違いをすることだ。自分にといって都合の良い勘違いは、自分にとって有利になることもある。楽観的な人というよりも、自分に都合の良いように全てを解釈することは、その人の立ち振る舞いに直接影響する。考え方は物言いに影響していくのだ。

量から質へ

 
 もうひとつ別の方法がある。それは、量をこなすことだ。量をこなすと、現在の自分が、過去の自分を教えることができるようになる。量をこなすことで、周りが見えてくるからだ。周りが見えてしまうと、過去の自分のダメなところが見えてくる。そうならば、現在の自分も見えてくる。あとは理想を求めて現在の自分と対話するだけである。その段階にくると「質」について理解し始める。量からしか質へ転化しない。では、どのくらいの量になると質へ変化するのか。それはケース・バイ・ケースだあろう。扱う問題が全部同じ方法で解けるはずがない。

 しかし、実を言えば本当にそうなのか、自分にはしっかりとした経験がない。いろいろな人の話を聞くと、最後はそうなっているように思えるのだ。