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『ローマ人の物語』

『ローマ人の物語』を読んでいるとがっかりする


 二千年前の過去の人がなぜこんなにも「考える」ことができたのか。ローマ史は後世の想像ではないのか。古代ローマで私はとても生きていけなかっただろう。だからやる気が失せる気がする。つまり、がっかりする。

 ハードウエアとしての人間の性能は少なくとも2万年、おそらくは4万年ほど変わっていないそうだ。現代でも賢い人がたくさんいるのだから古代ローマ時代にもいて当然。だから偉大な歴史があってもおかしくない。

 そう理解していもなにか腑に落ちない。過去の人は劣っている、という強い思い込みを持っているから。一体、どこで「古代は現代より劣っている」と刷り込まれたのだろう。

具体的にどのような情報を持っていたのだろうか

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 塩野七生『ローマ人の物語』を読んで感心した人ひとのブログを読むようにしている。その日に更新されたものにしぼっても一日に5件くらい検索に引っかかる。それぞれの人が好きな登場人物の良いところを述べている。ちなみに私が好きな登場人物は、たくさんいるが、強いて選べばハドリアヌス。五賢帝の一人。この人は、何がローマ帝国に必要なのかを現場で自分の目で見て判断し実施した。執務室であれこれ指示ずるタイプの人と違っていて、いいなと思う。思い込みや省略ばかりになりがちな「想像」によるローマ世界を相手にしたのではなく、自分の体で体感しながらローマ世界のモデルを獲得したのだ。言葉によってモデル化された情報としてのローマ世界ではなく、自分で確認したモデルをつくり、それをもとに現場で対応した。そういうところに憧れる。協力するならばこういうタイプの人がよい。

 そこで一つ疑問がわく。では自分がハドリアヌスになったしたらどうだろうか。まず、現場でなんらかの問題を発見するとしよう。そしたらその問題に対処しなければならない。では、「対処」するためにはどうすればよいのだろうか。まず、ローマはなぜ機能しているのかをその時点で知っている必要がある。だからこそ手を打つ事ができたはずだ。

 では、歴代のローマ皇帝はどうやって帝国内の時事問題を知ったのだろうか。歴史書が出回っていたのだろうか。新聞はないだろう。総督から送られてくるレポートを読んだのか。それとも時事問題のアナリストがいたのだろうか。具体的な対策をとるには、それぞれの地勢学や歴史や宗教など特殊事情に対して具体的に処置する必要がある。彼らはどうやってその知識を得たのだろうか。紙だろうか。もしそんなものがあれば、記録として遺しておいて欲しかった。石碑ならばいろいろあるのだろうけど。

古代における学習、記憶が優先だったのだろうか


 学生さんから勉強の仕方を聞かれることがある。私も知りたいくらいなのでなんとも答えられないでいる。学生さんには私の経験から得た結論を話すのだが、おそらくわからんだろう。それはそれでしかたない。では、古代ローマの時代、どうやって勉強していたのだろうか。学校のような私塾に通うか、家庭教師かなのだろが、教材はどんなものを使っていたのだろうか。筆記用具だって蝋版に釘のようなものだっただろう。紙ってのはどの程度あったのか。羊皮紙。インク。まだないかもしれない。となると勉学は記憶が頼りにならざるをえない。勉強することは現在よりもずっとハードだっただろう。まぁ、現在でもそれしかないなら皆さんそうするのだろうけど。

 カエサルの『ガリア戦記』を読んだとき、敵あるガリア人に対して「腹立たしい」とか「ローマ軍は大丈夫だろうか」という感情が自然にわき出た。感情を引き出すことができるのだから、『ガリア戦記』は現在においても本として素晴らしい。ただし、部族名が多くて閉口したが。これさえなければもっと面白いのにと感じた。と、そのとき気がついた。古代人は違った感想をもったのかもしれない。

 人や部族名などを記憶することが当たり前の世の中ならば、部俗名がいくつでてきても負担にならないはずだ。別のことが思い当たった。そうか、だから『ギリシャ神話』についていけるのか。私は最初で挫折した。なぜならいろんな紙の名前がやたらでてきて、うんざりしたのだ。でも、それらを記録することに抵抗がない人ならば、あの神話を「面白い」と感じるのだろう。その頃の社会では今以上に記憶を酷使していただろうか。

常識を再確認する不快さへ


 人は生まれたとき全く記憶を持っていない。前世の記憶など持っていないのが普通。だから、人は経験したことを記憶していく。言葉を覚えたあとは、その言葉で記憶していく。本や歌、伝承、慣習など文字以外の方法でも記録していく。後からやってきた人がそれらを利用するには、なんだかんだ言っても、過去の記録を勉強して自らの記憶に合流させていく。

 自分より若い人が自分と同じ常識を身に付けていく社会ならば、当たり前の事は次第に視界から消えていく。新しいものに特有の違和感を感じなくなるので、見えなくなるのだ。見えなくなったら当たり前のことを「思想」と呼ぶらしい。

 ところが、その当たり前がない人に出会うと、当たり前が突然眼前に現れる。すると、驚きよりも不快に感じてしまう。「常識」のない人子供などには教育を施すようになる。これは自分が不愉快にならないための方法なのだ。

 政治も同じかもしれない。ある時代が長く続くと、なぜその時代が長く続いたのかを知っている人が消える。消えないまでも、知識として知っているだけで実感をもっていない人ばかりになる。そうなったら、その時代は変わらざるを得ない。なぜなら、続く理由がもはやないから。ハドリアヌスが完成させた建設したローマというコンセプトはアントニヌス・ピウスの時代に薄まってしまった。なぜなら、何もしなくて良かったし、実際何もしなかったのだから。ローマが傾きかける兆候が目で見えるように拡大する前には目で見えない兆候があったはずだ。ピウスにはそれが見えなかった。また、見なくても良かったのだろうし。

 となれば、次のマルクス・アウレリウスはその兆候が目で見える現象に変わる時代(終わりの始まり)に立ち会うことになり、コモドゥスの時代に変わり果ててしまったのもうなづける。コモドゥスこの人を悪者にしたらちょっといい面の皮。無理ですよ。発生したあとの現象に対応するのは、もう無理。そう思えば、いつでもどこでも、ある時代が崩れ落ちる危険はある。社会でなくても、一人の人間の歴史のなかでもある。

歴史は原理的に繰り返すはずだ


 先の常識のようなものが国の政治や勉強に当てはまる。みなが気持ちよく生活できる状態、あるいは、あるレベルを越えてその状態を維持しながら勉強すると、アントニウス・ピウスの時代になる。なぜ、その人がそういう状態にいるのか認識できなくなってしまうのだ。五賢帝の時代の間に死んでしまうのならばいいが、それ以上長生きするとエライ苦労し、悲しい気持ちで息絶えることになる。要するに、人がコントロールするかぎりに置いて長続きしないのだ。

 それは嫌だ。ならばそうならない方法は簡単である。完成するとはゆめゆめ思わなければ良い。勉強は続けないと、あるいは、ある程度まできたら方法を変えないといけない。個人の歴史にもろロンゴバルド族が来週するかもしれないから。しかし、それは難しいのだろう。それができていたら古代ローマ人はスゴイ、なんて思いはしないのだろうから。