HOME > 2007 > Jul 04

仕方ないので本を読むか

面白い本って、なんだろうか。面白い条件などあるのだろうか。

 
 ある、と思う。「ゆっくり読んでいて楽しさを感じる」ような本。それは、「読む楽しみ」と「考える楽しみ」、「理解する楽しみ」を与えてくれる。例えるなら理想的な友達。ユーモアがあっても知識が詰まっていても、世間でバカ売れするもの(人気もの)もあるし、ダメなもの(もう一つ好きになれない)もある。いろいろ例えを考えたが、良い悪いの基準は人と同じになる。

books_reading.jpg こういう経験はないだろうか。役に立ちそうな知識を教えてもらった。冷房の効いた店で焼き魚定食を食べている昼時や居酒屋で盛り上がっているときには、良い事を教えてくれた人を大変有り難いなぁと感じる。しかしその知識に「前後」がないと、なんとも味気ない気分になる。クイズ番組のように番組が終わってCMが流れたときには「どうでもいい知識」に変化してしまい、翌日まで憶えていることはほとんどない。つまり、単に知識が書かれている本、あるいは体験した事実を「落ちなし」で報告する人は、ゲストが答えるだけのクイズ番組と同じではないか。そういものは全部、読んでいる最中、聞いている途中、見ている間に頭が真空状態になってイライラするか、別のことを考えてしまう。

 そもそも面白い本とは固定しているのだろうか。面白いものは常に面白いのだろうか。

 それは変化する。ただし、面白さは本の属性ではなく自分の状態、自分の側に原因がある。本を読んでいるとすれば、その人のその時点での「状態」が面白いかつまらないかを決めている。だから、同じ人が同じ本を読んでも、読んだ状態によって驚くほど評価が変わる。読むたびに違う。個人の「状態」は常に変化しているので、読む時間が異なれば違う人が読んだことと同じなのだ。

では、ある本を面白いと感じる読者の「状態」は何によって決まるのだろうか。


 昔読んだ本であっても初めて読むときと同じ価値を感じることがある。なぜなら、面白さは知識の獲得にだけ結びついているわけではないから。小説では素晴らしく価値のある知識などはでてこない。どちらかといえば疑似体験する過程、知識獲得が面白いのであって、疑似体験してしまったあとの状態はどうでもよい。ミステリー小説でなくとも、結末を読む前にいったらつまらない思いをする。とまぁ、そう理解しているのではある。これはあくまでも私の仮定なのだが。

 一方、知識を獲得した後にも面白さを体験できる。それは知識がつながっていくこと。知っている2つのことに実は関連があったと気付くときはとても愉快な気分になる。この快感は勉強する理由のトップに上げられるだろう。推理小説の最後のような快感であり、級友とばったり出くわしたうれしさのようなものである。知識単体を獲得しても、それが周りと関係のないものならば、単なるトリビアでしかない。だから大抵役に立たない。なので忘れてしまう。知識はネットワークを構成し、多くの知識との繋がりが多ければ多いほど忘れないし役に立つ。

 なぜ勉強するのかという問いに足して、感情で説明できる人は強い。動機が明確なので何をどこまで学べばいいのか感じがつかめる。この状態になって初めて「その人なりの勉強の仕方」を知ったことになるのだろう。今どんな知識を持っているのか。これから何をやりたいのか、自分は何が好きか。それにはどんなことを知ればいいのか。これらを頭の中でぐるぐる回しながら生きていく。最高の勉強方法である。そして、それは「本」であっても教えてくれる。よい友達と巡り合うのは運が支配するが、本はどれだけで本を読むかにかかっている。自分で選択できる。これが、本を読む理由なんだろう。