HOME > 2007 > Jun 23

ヨハネ黙示録

何がそもそもの動機なのだろうか


20070623-firenze1.jpg イエス・キリストの一千年王国が終わるとサタンが跳梁しだし、諸国民を惑わせて彼らに聖なる者たちの陣営を襲わせる。だがこのとき天から火が下って諸国民は焼かれ、サタンも地獄の業火のなかへ落とされる。イエスは地上に再臨し、死者たちを蘇らせて裁判を開き、善人を天国へ悪人を地獄に選別する。

 この物語を目にするたびに人のもつ「恨み」について考えてしまう。そうなったらさぞかし清々するだろうなぁ。この話にそういう人の思いを感じる。

 普通に生活することがままならない状況ならば、自分の力ではどうしようもできないことで生活できなくなったら、やり切れない悔しさをこの物語の実現に賭ける。そういう人の気持ちは理解できる。だって、そうするしかないじゃない。そもそも天候はどうすることもでない。作物が育たない、かといって生活の場を変えることもできない。そんな状態なのに、蛮族がやってきては無法の限りをつくす。警察や裁判などない状態。古代ローマ後半から中世での世界に生きていたら他にどうしろというのだ。貴族や蛮族の首領になれるのはわずかな人だけだ。

 宗教が今でも盛んなのは、今でもそういう状況に置かれている人がたくさんいるからだ。生き死にに関係がなくとも不愉快な状況に置かれる人はたくさんいるだろう。おかしな上司や顧客に遭遇した人、役人と掛け合ったことのある人ならば、蛮族にいいように荒らされ放題の状態にいる普通の人の気持ちが理解できるだろう。あるいは、西部劇の定番のような、荒れ暮れも野が跋扈する市民社会から捨て去られた街に住んでいる人なども。なんで自分はこんな社会に生きなきゃいけないのか。

 宗教は社会状況のなかで生きていくための人が自然と身に付けた工夫の一つなのだ。どうしようもない悔しい思いはいつの時代でもあったはずだし、今もある。悔しさはストレスを生み、それが原因で人は死ぬこともある。不合理な世界で生きていることに対する説明として、あるいは、心理的な意味合いで自己弁護というか自分の状況を諦めさせるため、ストレスで死んでしまわないように無意思が用意した機能なのだ。

 人の実際の行動に影響を及ぼすのならば、それはその人にとっての「現実」である。その「現実」に対して、それは現実なのかどうかという疑いや議論は必要ないし、真剣に考えることもない。だから、宗教的に対立している人たちが言葉の交換で相手を分かりあえるなどということを期待しないほうがよい。宗教的な対立は結局のところ原因ではなく現象である。原因はおそらく、関係している人はその人が属する社会に多いに不満があるのだ。宗教的対立をなくすには不満がない社会を作るよりない。そして、これは現在においても同じなのだ。