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どうやってノートをとればいいか

実はだれも教えてくれないこと


20070618-01.jpg ノートを取るという行為に、文字を使った「効率的な」学習の基本すべてがある。それなのに、どの教師も教えない。それはなぜなのか。ノートを取ることが「言葉を使って考える」の第一歩なのに、それを教えないのはなぜなのか。小学校、中学校、高校の先生は全員それに気付かないのだろうか。

 ノートをとる行為は、小学校に始まり長い期間ほぼ毎日続ける。社会人になってもノートを取ることがある。しかし、恐るべきことに、ノートをどうやって取ればいいのか一度も先生から教えられた憶えはない。皆はどうやっているのだろう。物心付いたときにはすでに黒板を写していた。それでいいのか。ダメだ。ノートはどうやってとるのかという疑問を持つ前から毎日黒板写しを繰り返しているのだから、疑問などわかない。この写す行為は文字書き方練習の意味しかない。そのうち、勉強とはテストで点を取ることだと思うようになる。

 では、先生が悪いのか。知っていて教えないのならば悪い。しかし、先生方も知らないだろう。彼らもテストで点を取ったから先生をしている。もし、ノートを上手にとれるようになったら先生を目指さないかもしれない。ノートの上手下手はそれくらい破壊的な違いをもたらす。「正しいノートの取り方」というものがあるわけではない。だからといって、人それぞれだなどという主張をして何かを言った気になっている先生など消えうせて欲しい。なぜなら、先生という職を放棄しているに等しいから。精神的な補助は可能だが、学習という行為については絶望的だろう。ノートの取り方を知らないならそう言えばいい。いかなる学習でも初めは「真似る」ものだ。それを示せなければ、進化の過程をまたやり直す必要がある。一生かかる。それでは効率的ではない。学習指導要領にはどう書いてあるのだろうか。

じゃぁ、工夫するしかない


20070617-2.gif ノートの取り方に疑問を抱き始めたのは高校時代である。それまでは教科書の要約を先生が黒板に書いてくれており、それをコピーしたものがノートだと思っていた。つまり、ノートから【学ぶ】のである。ノートに【教えてもらう】。教科書は覚えるのは無理だから、せめて覚えられる量としてノートにしている。そういう理解でよい。

 ノートを学ぶという行為は長期的にみて失敗する。そもそも知識の移動方向が逆なのだ。教科書が一人一冊ない時代はそういうノートが必要だっただろう。メモの意味がノートにないとはいえいない。いわゆる覚書である。しかし、今の時代は違う。黒板に書いたことを記録する必要は全くないからである。「教科書」ですら要約なのに、それを要約していったなにが残るのか。テストの範囲か。すると、テストのための勉強が始まる。そもそも、ノートをとる意味の勘違いが発端といえなくもない。

 ノートは授業を聞き教科書を読んで理解したものを紙に再構成したものだと思う。だから、ノートは知識なり理解なりが自分の頭を追加した「後」に出来る。自分が考えた結果、道筋がノートして残るのだ。であれば、授業中にノートを取ることは実際問題不可能だ。前もって授業内容を考えておけば授業中うにノートをとることは可能だろうがが、そんなに毎日授業全部について考えることは実際問題できないだろう。

先人の結果も一つのありうる解

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 自分が「あること」を知った。その頭の状態を紙に落としたものがノートである。現象の理解は人によって若干違うニュアンスをもつ。なぜなら、現象は現象でしか100%表現できないもので、言葉や絵で表現したものは必ず「何か」が足りなくなるから。「何か」は人によって全く違うので、「何が」足りなくなるかのバラエティーは無限に近い。だから、人によって異なった理解をしているように見えるし、その結果のノートが人によって変わる理由が理解できる。この状態を完璧に表現するノートの取り方に『ザ・マインドマップ』がある。今から10年くらい前に知ったとき、衝撃的だった。そして後悔した。なぜ、ノートの取り方に疑問を抱かなかったのだろうと。

 マインドマップだけが良い方法というのではない。ノートの取り方なるものは一つのアートであって、深く考える対象になりうるという事実に気付かなかった。勉強を本格的に始める前にノートのとり方を探るべきだったのだ。それが私の人生の大きな取り返しのつかない失敗になった。

 『ダ・ビンチの手稿(Leonardo's Notebooks)』が残っている。おそらくあれが現存するノートで最も感動的なものであろう。彼が理解したことだけでくなく、理解してく過程も言葉とイラストでつづられている。天才といっても普通の道具を使って考えていたのだ。想像の最大の武器は<strong>言葉と絵</strong>のようだ。もちろん、幾何や計算もある。それが最終的なものにどうつながっていくかが才能というものらしい。普通の人からみると、単に運不運のような気もするのだが。

この手法は研究結果ってのは存在しないのか?


 勉強仕方は存在する。考える、という行為を自転車の乗り方のように手取り足取り教えることはできない。しかし、考える相棒としてのノートの存在、そして考える道具であり結果の表現であるノートの取り方くらいは教えられると思う。小学校高学年から中学校の時代にかけて、ダ・ビンチのようなノートを取れるように準備してゆけば良い。どういうノートが素晴らしいのか、目に見える一つの目標になる。あのノートは美術、言葉、数学など脳内の活動でできるものに適用できる。

 考える行為のうち、楽器やスポーツなど体や道具を使うものについては、別の方法が必要になってくるかもしれない。ただし、そちらの方はどうすればよいかという教育方法が確立しているようである。だから、まずノートの取り方を学ぼう。これが、現時点での人生におけるLesson's Learned(教訓)なのだが。